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黒部ダム50周年 ! ! 【 国内ダム大きさランキング. ダム建設暗黒史,殺人と強制労働 】 [ニュース]

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 ①.日本一の黒部ダムで今年も始まった “観光放水” の様子を多くの画像で。
②.日本のダムの高さランキングと貯水量ランキング。 ③.戦中戦後のダム建
設暗黒史、「人柱は当たり前」 という当時の悲惨な状況を詳しくお伝えします。


 今年で完成から50年を迎えた、立山・黒部アルペンルートの黒部ダムで26日、
観光放水が始まりました。 高さ186メートルと、日本一を誇るダムの壁面から毎
秒15立方メートルの水が勢いよく噴き出して、壮大な水煙のアーチが観光客を
魅了したようです。


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 この日の黒部ダム周辺の気温は14・7度(午前8時46分現在)。 雨がぱらつ
くあいにくの天気の中、観光客はダム脇に設けられた観覧ステージや、放水を間
近で見ることができる新展望広場などから、ダムと雪の残る山並みが織りなす雄
大な光景に見入っていたということです。

 観光放水は、10月15日まで早朝から夕方にかけて行われます。
問い合わせは、くろよん総合予約センター 0261(22)0804 です。


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【 日本のダム 大きさランキング 】
《高 さ》
①.黒部ダム (富山県、黒部川系黒部川) 186m
②.高瀬ダム (長野県、信濃川系高瀬川) 176m
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③.徳山ダム (岐阜県、木曽川系揖斐川) 161m
④.奈良俣ダム (群馬県、利根川系楢俣川) 158m
⑤.奥只見ダム (福島県・新潟県、阿賀野川系只見川) 157m
⑥.浦山ダム (埼玉県、荒川系浦山川) 156m
⑥.宮ヶ瀬ダム (神奈川県、相模川系中津川) 156m
⑥.温井ダム (広島県、太田川系滝山川) 156m

《貯水量》
①.徳山ダム (岐阜県、木曽川系揖斐川) 660000 リットル 
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②.奥只見ダム (福島県・新潟県、阿賀野川系只見川) 601000 リットル  
③.田子倉ダム (福島県、阿賀野川系只見川) 494000 リットル  
④.夕張シューバロダム (北海道、石狩川系夕張川) 433000リットル  
⑤.御母衣ダム (岐阜県、庄川系庄川) 370000 リットル  
⑥.九頭竜ダム (福井県、九頭竜川系九頭竜川) 353000 リットル  
⑦.池原ダム (奈良県、熊野川系北山川) 338400 リットル  


【ダム建設暗黒史】  当時の悲惨な状況を、抜粋して紹介します。

 黒部第四ダムの工事犠牲者171名、関連する仙人谷ダム工事などの犠牲者を
含めれば軽く300名を超す。 佐久間ダム工事犠牲者96名、奥只見ダム工事犠牲
者117名。

 このように、なぜか人跡未踏の山奥に作られるダム工事現場では異様なほどの
犠牲者が出ることになっている。

 当時、1960年前後の工事では、まだ日本の産業レベルは、今の中国とほとんど
同じ、商業モラルもなくひどいインチキばかりで手抜き工事が常識だったのだという。
現在、中国の商工モラルを糾弾したり小馬鹿にしたりする人が多いが、それはかつ
て日本人がたどった道であることをもう一度思い返して見る必要があるのだ。

 当時の経営者はこう話す。
 「あのな・・・、佐久間ダムや黒四ダムの犠牲者の半分は、事故じゃなくて殺人の被
害者やで、当時は、行くのに歩いて二日もかかるあんな凄い山奥の工事現場じゃ、
警察も来られへんし、医者もおらなんだ。 現場監督のボウシンもヤクザばっかりや。

 仕事が終われば、毎日のように酒とバクチしかあれへん。 そうなればケンカも当た
り前や。警察なんか絶対来んからやりたい放題や。 ちょっと気にいらなんだら、みん
な剣ナタやドス持って切った張ったの世界やから、毎日のように怪我人、死人が出る。

 ところが大怪我しても医療がないからほとんど助からん。そいで、生きてるうちにダ
ムの底に 『人柱やー!』 って放りこんでしまうわけや。 オレの知っている連中で、殺
されたのが、どんだけおるか見当もつかん」

 また、戦時中には朝鮮人が強制労働させられていたという。 この工事に朝鮮人連
行者が連れてこられたのは、39年からと言われ、最盛期には2千人から3千人が強
制労働をさせられた。

 朝鮮人の飯場は、一棟に130人も入る大きなもので、窓には逃げないように鉄の
桟がしてあり、出入口には倉庫にかけるような大きな鍵をかけていた。 「夜は頭を内
側に、通路を挟んで両側に半分ずつねるんだけど、一晩中真ん中の通路を棒を持っ
た監視人が行ったり来たりして見張っている」 ので、隣の人と話をしても棒で殴られた。
一つの飯場に監視人が30人から40人もいたという。

 衣服は、国から着てきたシャツの上に、ミノやムシロを着た。履き物は、ほとんどが
わらじ、冬は布団の破れたのやボロ切れを紐で足に巻き付けた。 マイナス30度を
超す厳寒の中でこんな服装では耐えられず、ほとんどの人が凍傷にかかった。 しか
し病院治療は受けられず、飯場で休ませることもなく工事現場まで連れて行った。

 食事は、飯台の上にアルミニウムのような食器に飯を盛ったのと塩汁が置かれて
立ったまま食べた。 夜のオカズに塩マスとたくあんが一切れ出たが、これで重労働
を一日に12時間から18時間もするのだから、どの人も空腹に苦しんだ。

 遠くへ働きに行く時は弁当持参だったが、朝のうちに組の監視人や親方たちが弁当
の中身を食べてしまって空の弁当を包んで持たせたので、朝鮮人たちは昼食抜きに
なった。

 空腹と苛酷な労働に耐えきれず逃走する人がよく出たが、ほとんど捕えられたとい
う。 飯場に連れ戻されると、柱に縛り、みなを座らせた目の前で見せしめに棒で殴っ
た。 気絶すると水をかけて気づかせ、また殴った。そのまま死ぬ人もいた。


 ・・・・・・ ダム堰堤コンクリート打ち現場では、巨大な足場(当時は木製)の中で、上
から生コンがバケットで流し込まれる。 すると、ときどき足場が崩壊して作業員がコン
クリートに埋まってしまう。 しかし誰も助けようとしない。 生きているのに、そのまま上
からどんどんコンクリートを注いで埋めてしまうのだという。 これを人柱と呼んでいた。

 また終業後、ケンカをして傷ついたり死んだりした者も、片っ端から堰堤のコンクリー
トに放り込んで埋めた。

 「いったい、どれくらいの人柱が埋まっているのか? オレの知ってるだけで50人は
超えるんとちがうか」 と彼は語った。

 佐久間ダムでは、1953年からわずか3年余りのもの凄い突貫工事をやった。その
ため、人の命など屁とも思わず、死のうが怪我をしようがいちいち工事を中断せずに
強引に貫徹し、死者はそのまま報告もせずに埋めてしまったのだという。 生き埋めに
なった者も多数いたという。

 ・・・・・・ こうした異常な人権感覚が、戦後のダム工事現場では長く続いた。もちろ
ん黒四ダムもそうだし、それどころか、関西電力が計画した若狭湾周辺の原発工事
や保守管理でも同じ感覚で人権無視の凄まじい工事が行われたという。

 1970年前後、筆者が土建工事で入り込んだビルの基礎に血が滲んでいるのを発
見したことがあった。 「何だろう?」というと、近くにいた男は、「人柱だ」と答えた。そん
なことは、当時としては珍しくもなかった。


 若狭のある原発では、初期の頃、信じられないほどの猛烈な放射能漏洩と被曝がく
り返された。

 作業員が高レベル放射性廃棄物プールに落ちたりして死ぬと、あまりの高レベル放
射線に近づくこともできず、クレーンで死体を吊ってドラム缶に入れ、コンクリートで固
めてそのまま日本海に投棄したという信憑性の高い噂が伝わっている。

 当時原発作業員たちは、じつは関電のダム工事労働者が連れてこられていたのだ。 
彼らが行方不明なることはありふれたことで、警察も労基署も何の関心も持たなかった。


 ・・・・・・ という感じだったそうです。 なんと言ったらいいのかわかりませんが、みなさ
んはどうお感じになったでしょうか?




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