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はこだて「五稜郭」 の解説です [旅行・観光地]

 五稜郭は、江戸時代末期に蝦夷地の箱館府(函館市)に建造され
た稜堡式の城郭である。

 長野県佐久市の龍岡城など、当時日本で建造された星形の城郭を
「五稜郭」 と通称するが、一般に 「五稜郭」 といえば函館のそれを指
すことが多い。

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 国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」 として北海
道遺産に選定されている。

 1854年の日米和親条約締結による箱館開港に伴い、幕府は函館
奉行を設置したが、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するため、
徳川家定の命により築造された。

 設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。 外国の書物を頼り
に日本人が独自に研究することで作られた。 大砲による戦闘が一般
化した後のヨーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型
に配置している。 総面積は74990坪。

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 当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が
薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。

 当時の日本の城郭は、政治的変化や戦争と銃砲の発達を経験したヨ
ーロッパと異なり、居住施設である宮殿と軍事施設である要塞の分離が
ほとんど行われておらず、五稜郭も居住施設 (五稜郭の場合は役所)と
軍事施設を兼務していた。

 箱館奉行所がおかれたが、大砲の標的となることを防ぐ目的で建物
を低く設計したため、政庁を置くスペースがなくなった。

 そのため、見かけだけの西洋式築城であるという評が一般的であり、
このような旧式の城郭が大砲を備えた近代戦の攻防の舞台となれば
どういう目に遭うかは、会津若松城、白河小峰城の休戦後の写真を見
れば明らかである。

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 実際に箱館戦争の際、箱館奉行所の建物の天辺にある楼閣が官軍
の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。

 それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度を
かなりの精度で知られてしまい要塞内に次々と着弾、最早この時点で
要塞としての機能は麻痺していた。

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 防御壁としては土塁を築き、砲弾のショックを吸収するのが稜堡式の
築城様式の特徴である。 しかし、五稜郭の場合は土塁を築こうにも北
海道の寒冷な気候に適合せず、冬の間に凍った土塁が春の温かさで
崩壊するという困難に直面した。そのためわざわざ石垣を築き、その上
に土を盛るという手間をかけている。

 なお、土塁に固執しなくとも、南北戦争のサムター要塞のように、柔ら
かい煉瓦を使うという方法もあった。

 一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様
式は、いささか旧式化していたことである。 堡塁を重ねるのは小銃を防
御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲によ
る防御へと移行しつつあった時期である。

 現に同時期の普仏戦争において、フランスの稜堡式の要塞はプロイ
セン王国軍に簡単に突破・攻略され、要塞形式として旧式化している
ことを露呈していた。

 稜堡式の陣地を築いた例は近現代でもあるが、あくまで野戦築城であ
り、恒久的な要塞としての築城例は無い。

 ちなみに同時期に東京湾に築かれた台場は、大砲を用いる要塞施設
である。

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(※) 稜堡式 : 大砲を主要防御武器として設計した城。 多数の大砲が
互いに死角を補い合うように造られている。16~18世紀にヨーロッパで
行われた。 日本では幕末に五稜郭など少数の城の築城法に取り入れら
れた。

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