SSブログ

色即是空とは? カンペキに理解できます! たぶん [宗教]

 「色即是空」 について説明します。 ですが、このコトバを理解するためには仏教
について一通りわかっていた方がいいと思われるので、まずは仏教について大雑
把説明していこうとおもいます。

 ですがですが、仏教について理解するためには、その背景となっているものごと
について多少なりともわかっている方がいいと思いますので、ここはひとつ、もっと
ずーーーー っとさかのぼって、人類の歴史についての説明から始めていこうと思い
ます。

 ですから、「色即是空」 の意味だけを手っ取り早く知りたいという方は、ほかのブ
ログをご覧になったほうがよろしいかと思います。 そうではなくて、イロイロと広く
知りたいという方は、このつづきをお読みになってください。

 それではスタート!

 人類は、その歴史の中で、現在までに4つの大きな革命を経験してきました。 それ
は、農業革命、都市革命、商業革命、産業革命の4つです。

 まず、紀元前8千年頃、「農業革命」が起こりました。これは、人間が農業を発明し
たことによって、それまでの狩猟・採集・漁労生活から、つまりは “その日暮し” 的
な生活から脱皮していくことになったということです。

 人間にとって、この農業革命のもつ意味はとてつもなく大きいものがあります。 な
ぜなら、この革命によって、人間に 「余剰」 と 「余暇」 が生まれたからです。

 はじめに 「余剰」 について考えます。 人間は、農業を行うことによって、その時に
必要とする以上の作物を手に入れることができるようになりました。 そして、この余
った作物は、先々のために貯蔵・備蓄されるようになっていきます。

 この余剰作物こそが、原初的な 「財産」 です。 つまり、私たちが銀行の口座に預
けている預金や、お父さんが持っている株券、そしてお母さんのへそくりなども、もと
をたどれば、この余剰作物にいきつくというコトです。 ⇒ ① (末尾)

 余剰財産が生まれると、それを奪うための略奪や戦争が起こるようになります。強
い物たちはいろんなものを自分で作るよりも弱い者から奪い取ったほうが早いわけ
です。

 さらに、余剰財産が生まれると、それらを分配した結果として貧富の差が生まれま
す。 そしてこれが固定化されると、身分の上下というものに発展していきます。

 次に 「余暇」 についてですが、 人間が狩りや木の実ひろいや魚釣りなどに頼って
生活していた頃は、毎日毎日、その日に食べる分の食料を手に入れるだけ必死だっ
たと思われます。 遊んでいるヒマはありません。 狩りをするというコトは、身を危険
にさらすということでもありますから、精神的にも緊張しっぱなしというカンジだったこ
とでしょう。

 一方、農業というのは年がら年中つねに働きっぱなしというものではありません。
一定の作業をこなせば、あとは放っておいても勝手に育っていってくれるワケです。
するとそこに余った時間というものが生まれます。

 こうして人間は、はじめて 「自由な時間」 というものを手に入れることになりました。
つまり、この 「余暇の誕生」 こそが、のちの文化や文明すべての前提になっている
ということです。

 この他にも、「農業革命」の結果として人間が一ヶ所に定住するようになったことが
挙げられます。 これはまず、農業をするためには一ヶ所に定住する必要があるとい
う面と、狩りをしていた頃のように、動物のあとを追ってつねに移動を繰り返すという
必要がなくなったという面の両方の理由があります。

 さらに、農業を行うためには比較的大きな集団が必要なことから、人間の集団の
規模が以前よりもさらに大きくなっていったということもあると思います。

 さて、次は「都市革命」です。 年代的には紀元前3千5百年~紀元前3千年頃にな
ります。 これは、学校で習った世界四大文明という、あのあたりの話です。

 農業革命以来、長い長い年月、およそ5千年の歳月が経過しました。 この頃にな
ると、バビロニアに代表されるような、巨大な城壁で囲われた都市国家が誕生する
ワケです。 長い年月が経ったので、余剰財産の蓄積もさぞかし大きくなったことでし
ょう。 それこそ、巨大な城壁を築いて守りたくなるほどに大きな財産に成長したよう
です。

 さらに、ここではすでに身分の上下によるヒエラルヒーができています。 貧富の差
が固定されて久しいというコトですね。 そして、人間に余暇というものが生まれたこ
によって、その生活や活動に幅が生まれました。 それが役割分担として表れていま
す。 宗教家や軍人、商人のような人もいたかもしれません。

 都市全体が堅固な要塞となっているところを見ると、戦争が頻繁におこっているよ
うです。また、宗教家は存在するようですが、この段階では、いまだユダヤ=キリスト
教やイスラム教のような高度な教義体系をもった宗教は存在しません。


 それではつづいて「商業革命」 です。 紀元前8~7世紀頃だといわれています。 仏
教は、この商業革命の影響をうけて誕生しています。 それはどういうことなのでしょう
か?

 ここで思い浮かべてください。 現在の東京23区を上空から見てみると、おそらく人
が住んでいる区域がほとんどで、その中にほんのわずかに公園などの緑の区域が
ポツンポツンと点在しているというカンジだと思われます。

 これに対して、商業革命の頃の世界を上空から見てみると、まったくの逆で、ただひ
たすら森林があって、その中にポツンポツンと、小さな人が住む集落があるというカン
ジだったと思われます。 大海原に小さな島が浮かんでいるようなカンジ。

 つまり、その頃の集落はお互いに孤立していて閉鎖的だったということです。 そうな
ると、それぞれの集落では独自のしきたりや、因習、こり固まった伝統などに支配され
ていたにちがいありません。

 そこに商人たちが入ってきたのです。 ここでいう商人というのは、店を構えている商
人ではなくて、行商人、つまり馬や馬車、らくだなどに荷物=商品をたくさん積んで地
方から地方、集落から集落へと移動を繰り返しながら商売を行っていた人たちです。
その規模については、小さいものから大きいものまであったと思います。

 この人たちが運んできたものは品物だけではありませんでした。 離れた地域の情報、
ニュース、ちがった価値観などなど。

 その結果、思想や価値観の相対化がおこりました。思想上の大混乱です。 伝統的
なものが疑われ、何が正しいのか分からない ・・・・・・

 こうなると、社会には当然変革が起こります。 じつはこの時代、このような思想上変
革が、世界同時多発的に起こっています。 インドでは、これからお話しする仏教やジャ
イナ教。 ギリシアではギリシア哲学のルーツであるイオニア学派の自然哲学、そして
中国では諸子百家といわれる多くの思想。 すこし遅れて日本にも仏教が伝来し、聖徳
太子が心を奪われます。

 ちなみに、中国のビッグネームである孔子大先生もこの時代の人物です。 孔子とい
えば言わずと知れた儒教の開祖にあたる人です。


 ここでひとつ面白い話があります。 仏教の開祖であるシャカという人物は、バラモン
教の改革派であって、新しい考え方を推進しようとしていこうとする立場です。 これは、
キリスト教の開祖イエスが、ユダヤ教の改革者であったのと同じです。 しかし、それに
対して儒教の開祖である孔子は、それとは反対の側、つまり伝統的な思想守り抜こう
という立場、反動の側の思想家なのです。

 「最近はやりの新しい考え方には、どうも良くないところがある ・・・・・」

 ですから孔子の思想というのは、「先祖を大切に」 であるとか 「礼儀や伝統的なしき
たり、習慣を重んじなさい」 というふうになるのです。

 ところで、商業革命の結果として、もう一つ、以前よりもさらに貧富の差が拡大した
ということも起こりました。 これは、貨幣経済が浸透し始めたとか、商人がぼった食っ
たとかイロイロあると思いますが、傾向として、富める者はより豊かに、貧しい人はさ
らに貧しく、極貧状態になっていったということです。

 さあ、いよいよ仏教の時代までやってきました。 仏教の成立年代については紀元前
6世紀という説と紀元前4世紀だという説があるのですが、そんなのはどっちでもいい
のです。 要は、商業革命の帰結として、社会が変革の時期にあったということです。

 当時のインドは、伝統的なバラモン教が支配的でした。 バラモン教というのはカース
ト制度をウチに含む、のちのヒンドゥー教の元となった宗教です。 とは言っても、社会
のあり方や生活様式のすべてを規定しているものですから、一般に言う宗教よりも、よ
り広い概念であると考えてください。

 それではまず、シャカという人物について少し触れておきましょう。

 この人は、サカ (シャカ) 族というクシャトリア階級の一族の王子で、 名前をゴーダマ
=シッダールタといいます。 サカ族の王子なのでシャカと通称されるということです。

 クシャトリア階級というのは、カースト4階級のうちの2番目の階級で、戦士・軍人階級
のことです。 バラモン (司祭階級)、クシャトリア (戦士階級)、ヴァイシャ (平民)、シュ
ードラ (被支配階級)。

 さて、王と妃は、つまりシャカのご両親は、シャカが清い心を持った人間になるために、
この世に存在するネガティブな物事、死、病、苦、貧 といったものを一切見せないように
して育てました。 そのため、シャカを城壁の外にも出しませんでした。

 やがて17歳にまで成長したシャカは、初めて城壁の外に出て、付近を見て回ります。
するとそこには、今までに見たことも聞いたこともないものがあふれかえっていました。
今までは知らされなかった、死、病、苦、貧 といったコトです。 衝撃を受けたシャカは、
この時に出家を決意したとされています。

 ・・・・・・ 修行を積んだシャカは、やがて悟りを開きましたが、シャカの思想というのは、
じつは宗教ではありません。 シャカ本人も、自らの思想が宗教だとは思っていなかった
はずです。 そもそも彼の思想の中には、神であるとかあの世であるとか、そういった類
のコトバは一度もでてきません。 それどころか、シャカはそういう言葉・概念について考
えることを戒めています。

 つまり、「神であるとか、死後の世界であるとか、あの世とか、永遠とか、この世の果て
とか、そういう、いくら考えても答えがでないような事柄について考えたり問うたりしては
いけません。 そんなヒマがあったら、もっと本当に大事なことについて勉強するべきで
す」 と、シャカは言っているのです。

 ここは大事なところですが、 シャカの思想を一言でいうと、

 『(人間にとって) 苦しみが生まれる原因と、それについての対処法』 ということに尽
きます。 これ以上でも以下でもありません。

 上でのべたように、 この時代には社会の変動によって極貧にあえぐ人たち、人間以
下の生活を強いられる人たちがたくさんいました。 教育も受けることができなかった
それらの人々の頭の中は、きっと疑問だらけだったと思われます。

 「オレのこのみすぼらしい姿は何なんだ? どうしてこんなふうになってしまったんだ?
なんでこんなにツラくて苦しいんだ? 誰かおしえてくれ!」 というカンジではないでしょ
うか?

 そこにシャカが現れるワケです。 人間というものは、いま起こっていることの理由が
わからないとものすごく不安を感じます。 例えば、自分が朝起きてみたら、真っ暗な
部屋の中にいて、身動きすらできない、という状況だったとします。 この時、どうして
自分がこんな状況になってしまったのかという理由がまったく分からなければ、不安
でどうしようもありません。 頭がおかしくなってしまいそうです。 しかしこの時に、「ヤ
クザに捕まって監禁されて身動きできないように縛られている」 という理由さえ分かれ
ば心を鎮めることができるのです。

 同じように、当時極貧にあえいでいた人たちも、その理由が知りたいのです。

 くり返しますが、そこにシャカが現れるワケです。 シャカはまず、そもそも苦しみと
は何ぞや? ということから説き始めます。 それではナゼその苦しみが生じるのか?
それならば、どうすればいいのか? ・・・・・・ と続いていきます。

 先に進みましょう。 シャカの没後、その教えはだんだんと宗教という衣をまといなが
ら後世に伝わっていきます。 これは一つには、神様であるとかあの世であるとか、そ
ういうコトバを用いたほうが民衆の心を捉えやすかったという理由があると思います。

 このように見かけ上、神だとか仏だとか言っても、思想の根幹部分がしっかりと伝わ
っていけば問題はありません。

 仏滅後しばらくすると、仏教は大きく2つに分かれます。 上座部と大衆部の2つです。
上座部というのは、ちゃんと出家をして、宗教的な戒律を守る生活をしなければダメだ、
という考えの人たちです。 宗教的エリートですね。 しかし、普通に暮らしている私たに
そんなことができるはずはありません。

 ということで、大衆部の方は「出家しなくても、多額のお布施をしなくても、戒律すべて
を守らなくても大丈夫、それでも救われますよ」 という、一般の人たちにとってはとても
ありがたい考え方を主張する人々のことです。 これが後に 「すべての民は救われる」
というふうになっていき、さらには 『悪人正機説』 のようなものまで現れます。

 ただ、ここで 「救われますよ」 と書きましたが、ほんとうはこれは間違い。 仏教という
のは実践宗教なのであって、自分で真理を見極めるためのものです。 他者(たとえそ
れが神であっても) に救ってもらうコトが目的ではありません。 救われる宗教の代表格
はキリスト教です。 仏教も時代が下ってくると「救われる」 という要素が出てきますので、
それをキリスト教の影響だと解釈することもできます。

 上座部の思想は、あまり私たちとは関係がないとも言えるので、ここではスルーします。
ただ、現在でもスリランカ (セイロン島)では、この上座部が主流となっています。

 もう一方の大衆部は、やがて 「大乗仏教」 といわれるようになっていきますが、日本の
宗派はすべてこちらの流れから生まれています。

 この大乗仏教には、大きな2つの思想の流派があります。

 それが 『中観派』 と 『唯識派』 です。 年代的には 紀元1~4世紀頃のことですから、
仏教思想の長い歴史の中では、比較的初期の方にあたります。 そして、この2つが仏
教思想の基礎になっている2つの大きな考え方だと言っていいと思います。

 それではまず、 『中観派』 から。 2~3世紀頃、龍樹(りゅうじゅ)= ナーガルージュ
ナが著した 「中論」 によって創始されました。 中観派の教義は般若経の影響を受け
たものであり、その基本となる概念は 「縁起」 と 「空(無自性)」 の2つです 。

 この世のすべての事物(=色)・概念は、「陰と陽」「因と果」「短と長」「無と有」 など、
互いに対・差異となる事物・概念に依存し、相互に限定し合い、差異的に成り立ってお
り、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなります。

  このように、あらゆる事物・概念は、それ自身のみで成立しているのではなく (無自
性)、他との関係によって相互依存的・相互限定的に成り立っていますが、これらの結
びつき、存在のあり方が「空(空性」 であるとされます。

 一方「縁起」についてだが、例えば、Aという事象の原因がBであって、そのBの原因
がCであり、Cの原因がDで ~  ・・・・・・ というように、この連鎖は無限に続くが、
これは、「あらゆる存在が相互に結びついている」 と考えることもできますが、 この全
体的な結びつきが「縁起」 だと言われます。

 しかし 「空」 と 「縁起」 の違いは微妙であって、例えば龍樹の言う 「空」 のことをシャ
カは「縁起」と言っていたりもするので、 あまり拘らずに、なんとなく分かればいいと思い
ます。


 次に 『唯識派』 は4世紀に現れた「瑜伽行唯識学派」 によって唱えられた認識論的
傾向を持つ思想体系です。 瑜伽行とはヨーガのことです。 現在の「ヨガ」 の源流はこ
こにあります。 この学派は中観派の「空」を受け継ぎながらも、それをさらに推し進め、
独自の教義を唱えています。 ⇒ ② (末尾)

 唯識では、この世界の事象すべては人が認識しているだけであり、心の外には何も
ないと考えます。 そして、あらゆる存在が個人的に構想された識でしかないならば、そ
れらは主観であって客観ではない。つまり諸存在は「空」であり実体のないものである
とされます(諸法空相)。

 さらに唯識では、最終的には心についてもその実体はないとされ、その存在を否定
されてしまいますが、 この点において西洋の唯心論とは決定的に異なっています。

 また、唯識には「アーラヤ識」という概念がありますが、これはユングのいう 「集合的
無意識」 と同様の考え方です。


 ・・・・・・ さてさて、いよいよ 『色即是空』 を理解するための土台ができました。 この
言葉は、一体どういう意味なのでしょうか?

 いくつかの解釈が可能だと思います。

 よく言われるのは、「世の中の事象(色)は、すべて実体がなく空なのであるから、そ
のようなものに執着するのはむなしいことだと理解しなさい」 という解釈ですね。

 これは逆に、「どうせすべては空なのだから、考え方次第で楽にやっていけるのだ」
というふうにも解釈できます。

 これ以外の解釈もありうると思いますが、ここから先は、みなさんが自分のアタマで
考えるのがよろしいかと思います。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 ①.この世の中に 「貨幣=お金」 が誕生したとき、それはどのようなカタチ、役割と
して誕生したのかを考えると、普通は、「物々交換の際の補助的な役割として」 として
誕生したのでは? と考えがちですが、どうもそうではないようです。

 お金は最初、蔵に備蓄してある貯蔵物を表す代用品(記号)として使われ始めたの
だそうです。 確かに、大量の貯蔵物がある場合はとても運びきれません。

 つまり、このことからも、世の中に最初に生まれた財産というのは農業生産物の余
剰分であったというコトがわかります。

 
 ②. ヨーガとは、もともと 「馬にくびきをかける」 という意味の単語から派生した言
葉で、つまりは、馬を御するように心身を制御するということを示唆している。

 ヨーガは、紀元前2500年~1800年のインダス文明にその遠い起源をもつ可能
性が高いと指摘されている。 (※) モヘンジョダロの遺跡から、ヨーガの坐法を組み
瞑想する神像、その他、さまざまなポーズをとる像が見つかっている。

 ヨーガの語が見出される最古の書物は、紀元前800年~500年の『古ウパニシ
ャド』 であるが、その後、2~4世紀頃、サーンキヤ学派の実践哲学の方法が、『
ヨーガスートラ』 としてとめられ、解脱への実践方法として体系化された。


(※) インダス文明の担い手 (トラヴィダ人) と、のちのバラモン文化を持った人々
(アーリア人) とは全く別の人種である。 もともとインダス文明が栄えていたインドの
地に、紀元前1500年頃に西方からバラモン文化持ったアーリア人が侵入し、それ
により トラヴィダ人は被支配民族となり、その一部は南インドや中央の山岳地帯に
移住した。 それらの被支配者たちはカーストの最下位である 「シュードラ」(不浄民)
に位置づけられた。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。