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もっともわかりやすい西洋哲学史 ⑩. 大陸合理論 (ライプニッツ) [哲学・思想]

  大陸合理論のつづきです。

 誤解を恐れずにいえば、さまざまな哲学の中には 「こ
れは カルト小説 と言ったほうがいいのではないか?」 と
思ってしまうようなモノもあります。

  僕の感覚からすると、今回ご紹介するライプニッツの
哲学とヘーゲル大先生の哲学がそれにあたります。

  さらに、ライプニッツのモナド論については、なんとなく
薬物のニオイを感じたりもします。 あまりにも発想が豊
かすぎるというか。

  もちろん、このような感想は僕の解釈が未熟であるこ
とが原因かもしれません。

  しかし、ムズカシイことは抜きにすると、今回ご紹介す
るモナド論はやっぱり奇妙キテレツな感じがします。


  それからもう1つ、ここにきて、この哲学紹介記事に対
して軽い気持ちで恐れ多いタイトルをつけてしまったこと
を若干後悔しております。

  タイトル通りの内容になっていない部分もあるかと思い
ますが、どうかお許しください。  [わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)]


  それでは、今回も始めさせていただきます。

  ルネサンスの頃、貴族や王族が芸術家や学者を宮
廷に招き、パトロンとしてその活動をバックアップすると
いう慣習が生まれました。

  それは貴族のステイタスであり社会貢献でもあった
のですが、今回ご紹介するライプニッツも活躍の場を
宮廷に求めた学者です。

  また、ルネサンス期には、現在へとつながるさまざま
な身分的なくくりが生まれています。

  職人層から芸術家と呼ばれる人が生まれ、錬金術
師は科学者となり、作家と呼ばれる人が誕生する など。
たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチも若い頃は職人工房
で職人として働いています。

  あのマキャべりがフィレンツェ・メディチ家で活躍した
のもルネサンス期。

  さらに、学問が各分野 (法学、神学、数学) に分か
れはじめるのもこの頃です。


 【 ライプニッツ 】

  ライプニッツ(1646~1716)は、ドイツ・バロック期の
万能人で、哲学をはじめ諸分野に通じ、学問と実践の
両方において活躍した人です。

  幼少の頃から書物に親しみ、大学では哲学・神学・
法学、数学を学びました。


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  卒業後、大学での教授を依頼されましたが、それを
断って活動の拠点を宮廷(ハノーファー家)に求めます。

  そこで彼は、図書館長を任されるかたわら宮廷顧
問や外交官として活躍、ヨーロッパ各地を訪れ見聞や
人脈を広げました。

  その後 1700年には、自らが尽力し設立したベルリ
ン科学協会の初代会長に就任。

  そのほか実践面においては、エジプト計画、新旧教
会合同、各地のアカデミー設立、鉱山開発、計算機の
考案、図書館運営 など多岐にわたります。

  学問においては哲学、記号論理学、微積分をはじと
した数学全般、力学、地質学、言語学、各国史、中国
思想、社会政体論、政治学 などを修め、各分野につい
ての論文が残っており、すべて合わせると膨大な量に
なるということ。

  これらの学問はそれぞれバラバラではなく、すべて
が統一された全体像を持つものとして構想されていた
ようです。

  「微積分法」 については、ニュートンとほぼ同時に理
論を発表したことで、学界では、どちらに考案者として
の功績を認めるべきかについて大論争が起こりました。


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  とくに、ニュートンがイギリス、ライプニッツがドイツ
ということで、イギリスの数学界と大陸側の数学界の
対立が数年にわたって続いたと言われています。

  現在では、両者とも独自に微積分法を確立したとい
うことになっているそうです。 ちなみに微積分という名
前はライプニッツによるものです。
 

 《 モナドとは 》

  前回お話したように、スピノザは、精神も自然も含め
すべての存在を 「神」 という唯一絶対的な実体によっ
て包括することでデカルト二元論の矛盾を解決しようと
しました。

  それに対してライプニッツは、この世界は、彼が 「モ
ナド」 と名づけた無数の実体によって成り立っている、
とすることでデカルトを乗り越えようとします。

  ライプニッツにおいても、実体の定義についてはスピ
ノザとほぼ同じで、一言でいえば 「それ自身のみで存
在しうるもの」 ということになります。

  モナドについて、ライプニッツ本人は次のように説明
します。

  『 モナドの内部が、何かほかの被造物のために変質
や変化を受けるということはありえない。 どう説明しよう
と思ってもできない。

 
  なぜかというと、モナドの中ではどんなものも場所を
移動させることはできないし、かといって、そこで何かの
内的な運動をおこしたり、それを導いたり、その勢いに
手加減を加えたりすることなど考えられないからである。

  そのようなことが可能なのは部分部分のあいだで変
化のある複合体の場合に限られている。 モナドニは、
そこを通って何かが出入りできるような窓はない 』


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 ・・・・・・ なんのことやらさっぱりわからないと思うの
で、説明します。

  モナドはこの世界における真のアトム(=不可分な
モノ)であり、宇宙における真の存在者である。

  しかし、空間的な広がりを持たない点で物的・延長
的な原子とは区別される。

  それは神による創造によって生まれたもので、神に
よらなければ終わりもなく、不滅である。

  モナドは部分を持たず不可分である。 ほかのモノ
とは相互作用をせず、ほかの何かが出入りできるよ
うな窓はない。

  外部からの原因によっては一切影響を受けず、そ
の作用は自身の内的原理のみにもとづく。

  各モナドはそれぞれに異なり、あるモナドは他のす
べてのモナドと区別される。

  モナドはそれ自身、表象と欲求をもつ精神的な存在
であり、意識的・無意識的な表象作用によって世界の
すべてを自身の内部で映し出している。

  モナドは世界の鏡であり、可能性をも含めて宇宙の
すべてのモノゴトをその内部で認識し表現している。

  創造の際に神があらかじめ定めた予定調和にした
がって、自らの意思で他のモナドと組み合わさり自己
の表象を展開し、変化していく。


 ・・・・・・ これでもわかりにくいと思いますが、中でも
特にわかりにくいのは次の点です。

  すべてのモナドが宇宙のすべてを表象しているとい
いながら、個々のモナドは他のすべてのモナドと異な
っている、とされる点。

  神に与えられた予定調和にしたがって他のモナドと
組み合わさることで自身の表象を展開する(物になっ
たり生き物になったりする)とされながら、自身の意思
によって働き、変化するとされている点。

  自身の内的原理にしたがうことと神の予定調和にし
たがうことの関係

  これらのわかりにくい点は、どうもライプニッツの原
典そのものに原因があるようなので、これ以上悩むの
はやめにしましょう。


  モナドは、アリストテレスの存在論のように階層的
な側面ももっています。

  それぞれのモナドは、濁った表象しか持たないもの
からハッキリとした表象を持つものまでさまざまな段階
があるとされます。

  物体のモナドの表象はあまりハッキリせず、動物の
魂のモナド、人間の魂のモナドというふうに存在の階
梯をのぼるにしたがって鮮明な表象を持つようになっ
ていく。

  このように、ただの物体にすぎないものであっても、
精神的な存在であるモナドにより構成されているとさ
れます。

  個々の物体は滅びますが、それを形作っているモ
ナドは不滅である。

  それを指してライプニッツは 「物体はつねに流れて
いる」 と表現しますが、これは古代イオニアのパルメニ
デスが 「万物は流転する」 と表現したのとそっくりです。


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 《 ライプニッツの存在論 (モナドロジー) 》

  ライプニッツの晩年の著作 『モナドロジー』 におい
て、この宇宙の存在のあり方、そして 神と世界と人間
の関係が説明されています。

  その中には 「矛盾律」 「充足理由律」 「不可識別者
同一の原理」 といった、名前だけでひるんでしまいそう
な原理がイロイロとでてきます。

  これらの原理は、この宇宙に存在するものが持つ
特徴をあらわしたものです。

  また前提として、ライプニッツにとって 「個体」 という
のは、それが誕生して以来経験してきたモノゴトすべて
がそのウチに含まれるもの、を意味しています。

  その上で、

  「矛盾律」 というのはアリストテレス論理学の基本で、
あるものが、そうであって、かつ、そうでないことはない、
つまり、あるものがリンゴであって同時にリンゴでないこ
とはない、という当たり前のことです。

  「充足理由律」 存在するものはすべて、なんらかの
存在する理由をもっている、ということ。

  「不可識別者同一の原理」 というのは、「自然のうち
には、数においてのみ異なる2つの個体は存在しない」
また、「識別できない2つの個体はない」 ということ。

  つまり、砂の1粒であっても 「個」 としての意味をも
ち、ほかの1粒とは区別されるということ。 

  すべてのものが、神によって創造され不滅であり、
精神的存在でもあるというモナドが組み合わさること
で成り立っているワケですから、これらの原理は当然
そこから導かれる結果だと思われます。


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  この宇宙に存在するのモノは以上のようなあり方で
存在し、この宇宙の歴史は、神が、ありとあらゆる可能
性の中から最善のものを選んで進んでいるのだ(=最
善観)。

  というのがライプニッツの世界観である、ということ
です。


  ・・・・・・ 以上、ライプニッツでした。



(※) 上の方でダヴィンチの名前がでたので、オマケ
として 「モナリザ」 のはなしをします。

  一説によると、「モナリザ」 こそが史上最高の絵画で
ある、少なくても人物画としては史上 no. 1 であると評
価されているそうです。


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  モナリザ論として、次のようなものがあります。

  モナリザがなぜスゴイのかというと、モナリザという絵
は、誰か特定の個人ではなく、「人間そのもの」 が描か
れているからである。

  世の中には、写真のように写実的でモデルになった
本人そっくりの絵画はたくさんあります。 それらの絵は、
当然モデルとなった個人を描いている。

  たとえば、光と影の画家レンブラントにも人物画があ
ります。 とても上手なのですが、やっぱり、いかにも絵に
描かれた人物、個人としての人物を写しているという感じ
がしてしまう。

  しかし、モナリザだけは違う。 モナリザのあの女性は
どこか 「個人を超えている」 ところがある。

モナリザは女性として描かれていますが、あの顔にヒ
ゲをつけて髪形を男のものにすると、まるっきり男性に
しか見えなくなります。


   20070325.jpg


  つまり、男女を超えているということ。

  また、モナリザの背景の景色は、女性をはさんで左右
の景色が連続していません。 つまり、左側の景色と右側
の景色はちがう場所なのです。

  これについても、ダヴィンチはどこか特定の場所の景
色ではなく、 「景色そのもの」 を描こうとしたからであると
言われています。

  このように、モナリザという絵画は唯一 「個を超えた
普遍」 を描いているところがスゴイのだ。


  この、「人間そのもの」 「景色そのもの」 という考え方は
もうすぐご紹介するカントの哲学と大きく関わっています。

 
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もっともわかりやすい西洋哲学史 ⑨. 大陸合理論 (スピノザ) [哲学・思想]

  つづきです。

  デカルトのあと、道は 「大陸合理論 ( デカルト ⇒ スピノザ
⇒ ライプニッツ ⇒ )」 と 「イギリス経験論 ( ロック ⇒ バークリ ⇒
ヒューム ⇒ )」 の2つに分かれ、それをカントが統一します。

  カントのあとは ( ⇒ カント ⇒ フィヒテ ⇒ シェリング ⇒ ヘーゲル
という流れになります。

 
  さて、前回説明したようにデカルトの哲学は 「精神と
物質」 というハッキリとした二元論でした。

二元論というのは、何かを説明する場合に非常に便
利なやり方で、私たち自身二元論的思考に慣れきって
います。 上⇔下、男⇔女、プラス⇔マイナス、善⇔悪

  しかし、根本的なことを目指す哲学においては、どう
しても二元論では気がすまないというか、2つを統一し
た理論、なるべく単純な理論を求める傾向があります。

  これは、哲学から派生した現代科学においても同様
ですね。

  アインシュタインが最後まで量子論を認めなかったの
も、「神がそんな確率が混ざっているような、そんなやや
こしい理論でこの宇宙を創るはずがない」 というのが理
由でした。

  アイン博士曰く 「神はサイコロを振らない」

  そういう博士の相対性理論は、「E=mc2」 (2⇒自乗)
という、確かに美しくて単純な公式です。


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  この式はとても有名ですが、この式が結局なにを意味
しているのかという説明はあまりなされません。

  E はエネルギー、m は質量、c は光速を表しています
が、この式は、エネルギーと物質と光、これら3つは突き
詰めれば同じものだということを言っています。

  エネルギーと物質が同じものだというのはまだわかり
ますが、光と物質が同じものだというのはあまりピンとき
ません。

  しかしビックバン直後の、場のエネルギーが激烈に高い
状態においては、じっさいに物質が光(光子)になったり光
がニュートリノになったりという反応が起こっていたのです。

  まさに神の領域にかすっている話です。


  もとに戻ります。

  そういうワケで、デカルトのあとしばらくは、デカルト二
元論を乗り越えるための哲学がつづきます。

ただ、デカルトの哲学は、そのあとの道が二股に分か
れてしまうほどに影響が大きかったというコトでもあります。


 デカルト (1589 ~1650)   スピノザ (1632 ~1677)
 ライプニッツ (1646 ~1716)   ロック (1632 ~1704)
 バークリ (1685 ~1753)   ヒューム (1711 ~1776)


 【 大陸合理論 】

  合理論とはというのは、①. 人間の理性を重視し、信頼
する考え方をいい、②. 1つの絶対的な原理から始まる演
繹的な哲学であるという特徴があります。

 《 演繹 と 帰納 》

  ものごとを考える際の道すじ、方法。 演繹と帰納は対
義語にあたります。

  演繹とは、はじめに抽象度の高い結論を立てて、そこ
から個々・具体的なコトを推論するやり方。 哲学者の多
くはコチラを好みます。 三段論法が典型的。

生物-哺乳類-人間-男性-白人-イギリス人-キリスト教徒  
          ( 抽象度・高  ⇔  低い )
 「生物には寿命がある」 ならば 「イギリス人にも寿命がある」

 「人には寿命がある」 「トムは人間である」 「トムには寿命がある」
           ( 三段論法 ) 

  コレに対して帰納とは、抽象度の低い事実を積み重ね
て結論を推論するやり方。 刑事ドラマにおけるホシの割り
出し方が典型です。

  どちらにも一長一短あって、演繹の短所は融通がきかな
いというところにあります。 立てた前提とほんの少しでも異
なっているトコロがあるとそれを否定しなければなりません。

  例えば、「鳥は空を飛ぶ」 という前提を立てた場合、ニワ
トリは鳥ではないということになってしまいます。

  一方で帰納の短所は、前提をいくら立てても確実な真理
には到達できないということ。

  しかし、帰納法は非常に有益な場合も多く、統計学の考
え方は帰納法に基づいていると思います。

  例えば、関東地方の視聴率を調べる場合、ビデオリサー
チが関東地方の中から無作為に選んだ家庭に機械を置か
せてもらって調べるそうなのですが、そのサンプルはたった
200 軒でイイそうです。

  200 という数は、関東地方の世帯数がどれだけ増えて
も変わりません。 そして、これは実験で確かめることがで
きます。

  まず、巨大な透明の水槽に白いピンポン球を8000個入
れます。 そして、それに加えて2000個の赤いピンポン球を
入れ、よくかき混ぜます。

そうすると、1000個のピンポン球のうち 2 割が赤い球と
いうことになります。

  そして、この10000の球の中からバケツで50個を取り出
してみる。それを何度もくり返す。 すると毎回のバラツキが
非常に多い。 50 個のうち、赤が1 割のときもあれば赤が3
割のときもある。

  次に、100個すくってみる。 それを何度もくり返す。 する
と、50 個のときよりもバラツキの幅が狭くなった。

  150個にすると、もっとバラツキが狭くなった。

ここから先は160. 170. 180 というふうに10個ずつ増や
していく。

  すると、すくい取る数を200個まで増やしたところでバラ
ツキがほぼなくなり、何回すくっても赤い球が約40個になる。
これは、母体を3万にしても10万にしても同じになります。 

実験終了。
 

 《 スピノザ 》 (1632 ~1677)

 バールーフ・デ・スピノザは、当時のヨーロッパ最大の貿
易港で、かつ最先端の場所でもあるオランダの裕福なユダ
ヤ人の家庭に生まれました。

  初等教育のみを受け、その後は家事を手伝うために大学
へは進むことなく独自に聖書や哲学、歴史、政治などの研究
をなした人です。

そして、生涯アカデミックな学者タイプではなく、市井の研
究者・著作家として活動しました。


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  高等教育を受けなかった彼は、既成の概念に捉われるこ
となく、聖書の解釈などにおいても従来にはないような批判
的な読み方ができたようです。

  スピノザこそが歴史上初めてキリスト教と聖書を真っ向か
ら批判した哲学者だと言われていますが、この時代になると、
キリスト教にも批判されても仕方がない部分が多く見られ、
形骸化が進んでいたのだと思います。

  そのため、その言動によって周囲から批判や誤解を多く受
けたようで、20代半にはユダヤ教から破門されてしまいました。

  その後も、政治など多方面における研究、執筆活動を続け
ましたが、やがて、著書の内容から 「無神論」 だとしてキリス
ト教からも非難を浴びてしまいました。 

  このように、生前においては彼を批判する声が多かったよ
うで、のちに、彼の書いた本が発禁処分を受けることもありま
した。

  しかし、一方では彼を評価する声もあって、大学での教授
を依頼されることもあったのですが、自分の思索内容が制限
されることを恐れた彼は、そのを依頼を断ります。

  そして、その後も執筆家として過ごましたが、やがて 44 歳
で短い生涯を終えました。 


  ということで、現在のスピノザの名声は彼の没後に形成さ
れたものです。

  没後100年近く経過した頃、カント(1724~1804) がスピノ
ザを評価したのをきっかけに、それ以降彼を再評価する向き
が高まっていったようです。

  その後、かの大御所ヘーゲル(1770~1831)が、彼をこれ
以上ないほどに高く評価し、それによって彼に対する高い評
価が完全に定着します。。

  ヘーゲル曰く、「スピノザは近代哲学の要点である。 スピ
ノザ主義か、いかなる哲学でもないかどちらかである」 「あら
ゆる哲学的思索の本質的資源」 なのだそうです。

フォイエルバッハもスピノザを 「近代の自由思想化と
唯物論者たちのモーゼである」 と評価しています。


  スピノザの哲学は、単純な言い方をすれば 「汎神論」 だ
といえます。

  デカルトとの関係でいえば、デカルトの二元論をもっと厳密
にするため、あるいは、デカルトの道をさらに奥まで進むこと
でデカルト路線を徹底させたのがスピノザの一元論であるとい
えます。

  しかしニュアンスとしては、“二元論を統一した” というよ
りも、「神」 の名において両者をまるごと包み込んだという感
じです。

スピノザからみれば、デカルト論にはなおあいまいな部分
があるように思えました。

  厳密さを求めたスピノザの難解な主著 『エチカ』 は、ユー
クリッドの 『数学言論』 を模して 「定義-公理-定理-証明
-系」 という数学書の体系で書かれています。


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  彼はその中で、「実体」 を次のように定義します。

  『 実体とは、それ自身のうちに在り、かつ、それ自身によっ
て考えられるもの、言いかえれば、その概念を形成するのに
他のものの概念を必要としないもの解する 』

  これは、デカルトが 「明晰判明な直感」 によって得たもの
を、スピノザが言葉と論理によって厳密に定義しなおしたとい
うことになります。

  なおかつ、スピノザはこの定義によって遠まわしにデカル
トを否定しています。

  デカルトによれば、人間の精神が自然を理解できるのは、
精神が神から与えられたことによっています。 また、私たちの
精神には 「自然の光」 が宿っているからであるともいいます。

  この説明は、精神という実体を説明するために、もう1つの
実体(神)を用いています。 これは、もう一方の自然について
説明する場合も同様です。

  もうお分かりのとおり、これはスピノザの実体についての定
義からすれば NG 。

  これに対してスピノザは、自ら立てた定義にのっとって 「実
体=神」 、唯一 「神」 のみであるとします。

  また、デカルトにおいては、精神と物質(自然)という2つの
異なった実体がどのように関わりあっているのか、なぜ精神が
自然を理解することができるのか、という点について厳密には
説明されていません。

  この疑問についてもスピノザは、両者は結局同じものなの
だ、私たちも自然も神の一部であって、「思惟も延長も神の属
性なのだ」 とします。

  このように言われてみると、確かにスピノザによる批判の方
が的を得ているような気もします。 感覚的に言って、精神や自
然よりもやはり「神」の方がより根源的な概念のように思えるか
らです。

  また、スピノザの実体の定義に従えば、普通に考えて 「神」
以外にはありえないという結果になるでしょう。


  ・・・・・・ さて、このように、根っからのキリスト教信者が語
る 「神」 の概念や 「神」 の名が出てくる議論については、じ
つは僕自身、正直いってどう判断し評価すればイイのかわか
りません。

  もっと正直に言ってしまうと、神をもちだすのはちょっとズル
イだろ、という気もします。

  理解しがたいことについて 「神」 の一言で片付けてしまっ
たら、それこそ “何でもあり” になってしまうだろ。

  ・・・・・・ しかし、このような批判はきっと浅はかすぎるのだ
と思います。 なので 「神」 の概念が含まれる議論は、知識と
して 「知る」 だけであきらめましょう。

  ただ、このような汎神論的な考え方は、人格神を標榜して
いるユダヤ-キリスト教からすれば認めることはできないと
ころがあると思われます。


  とにかく、スピノザが言うには 「人間精神も自然も含めてす
べてが神」 「万物はすべて神の属性が “必然的に” 生み出し
た様態である」 なのです(『必然的に』 に留意してください)。

  一般的に、このような考え方を 「アニミズム(精霊崇拝)」 と
いいます。 人間精神の発達史でいうと、精霊崇拝は、教義宗
教よりも前の段階に位置しています。 魔術や呪術もここに含ま
れます。

  また、日本の神道もアニミズムに含まれますが、いちばん
わかり易いのは宮崎駿監督の 『もののけ姫』 です。 あれこ
そまさにアニミズム。


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(※) 宮崎駿論はこちら (興味のある方はお読みください)
http://perfect-news.blog.so-net.ne.jp/2013-09-20


ただ、気をつけたいのは、スピノザの言う 「神」 はこの世界
を越えた、超越的な神、またプラトン的な神ではありません。

  「この世界=自然=神」 という、あくまでもこの世界にとどま
った自然主義的唯物論なのです。

  そして、スピノザ哲学のもう1つの特徴として 「決定論、あ
るいは運命論」 的である、また、その哲学には歴史という観
念が存在しない、ということがあります。

彼は、この世界に偶然というものは存在しない、すべてが
永遠の相の中であらかじめ決定されているといいます。

  神は必然的にこの世界を生み出した。 もし、この世界が
偶然に支配されているならば、私たちがこの世界の真理を
認識することはできないであろう。 すべてが必然であるから
こそ私たちは真理に到達できるのだ。
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このように主張するスピノザは、さらに人間の自由意志を
も否定しました。 この辺の感覚はまさにキリスト教的なところ
です。

  また、もしもスピノザが現在に生きていたとしたら、アインシ
ュタインと同じように量子論を否定していたことでしょう。


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以上のようにスピノザの哲学は、永遠の相においてあらかじ
め定まっている真理を明るみに出し、数学のように証明してい
く作業であったということです。

スピノザについては以上です。

  次回は、スピノザとは対照的な生き方をしたライプニッツ
について。


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