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大瀧詠一さん訃報報道のまとめと プロフィールその他大瀧詠一さんのすべて [音楽]

  【代表曲の動画もあります】  ミュージシャンの大瀧詠一(おお
たきえいいち、本名=大瀧榮一) さんが亡くなったことが31日、わ
かりました。 65歳でした。

  大瀧さんは30日午後7時すぎ、東京都瑞穂町の自宅で倒れ、病
院に運ばれましたが帰らぬ人となりました。

  警視庁福生署などによると、大瀧さんは当時家族とともに在宅、
果物を食べていたところ急に倒れ、119番通報で救急搬送する際に
は既に心肺停止状態だったようです。 原因は解離性動脈瘤でした。

  大瀧さんは岩手県江刺郡梁川(現奥州市)生まれ。 1968年早
大に入学後、細野晴臣、松本隆を紹介され、ともにバンド 「はっぴ
いえんど」 を結成。 日本のロックミュージックの先駆けとして大きな
影響を与えました。


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  73年に解散後は自身のレコード・レーベル 「ナイアガラ」 を立ち
上げたほか、山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド 「シュガー
・ベイブ」 のプロデュースなどを行いました。

  81年、シングル 「君は天然色」 がヒット。 この曲が収められたア
ルバム 「A LONG VACATION」 は 『第23回日本レコード大賞・ベ
ストアルバム賞』 を受賞。

  「A LONG VACATION」 や 「EACH TIME」 などのアルバムは、
その洗練されたメロディーで当時の若者文化や風俗を象徴する大
ヒットとなりました。





  この頃には、当時人気絶頂だった全盛期の松田聖子さんにシング
ル 「風立ちぬ」 を提供し、アルバムのプロデュースもおこないました。

  また、大御所の小林旭さんには 「熱き心に」、森進一さんには 「冬
のリヴィエラ」 という楽曲を提供しともに大ヒットとなります。

  さらに、CMソングも多数手がけ、とくに 「三ツ矢サイダー」 のCM
ソングは今では当たり前のCMソングのレコード化第1号となりました。

  97年には12年ぶりにシングル 「幸せな結末」 を発表、この曲はフ
ジテレビのドラマ 「ラブジェネレーション」 の主題歌としてミリオンセラ
ーを達成。

  来年(2014年)3月21日には、84年3月21日発売のヒットアルバム
「EACH TIME」 の30周年を記念して、「EACH TIME 30th Anniver
sary Edition」 の発売も予定されていました。


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  森進一さんは、「レコーディングしたとき 『絶対に売れるよ』 と断言
してくれて、すごい人だなと思いました。4, 5年前に偶然電話があり、
とてもお元気な様子だったので本当に驚いています。

  冬のリヴィエラは、聴くと誰もが大滝さんの曲だと言うほど代表的な
メロディーでした。 突然のことだったので、ご本人も思ってもみなかっ
たことだと思いますが、いろんな才能をたくさん持っていた方で、本当
に残念です」 と話していました


(※) アルバムのジャケットからも伝わると思うのですが、大瀧詠一
さんは曲も含めてとても 「センスのイイ」 アーティストでした。

  大瀧さん、佐野元春さん、山下達郎さん。 この3人は非常にポジシ
ョン的に近いアーティストですが、この3人の中でもセンスの良さは大
瀧さんが1番のような気がします。

 その魅力がよくわかる代表曲3曲の動画を貼りましたので、ぜひ
聴いてください。






《 その他、周囲の人たちのコメント 》 

大貫妙子
  「大瀧さんが亡くなりました・・・。 なんてことなの」


クリス松村
  「大瀧詠一さんが・・・逝去なさった・・・そんなバカな・・・。 今、ニ
ュースの速報でそんな報道が。 信じられません。

  日本のJ-POP界の始まりを作られた方です。 山下達郎さんも大
滝さんのレコード・レーベルからデビューされました。 松田聖子さん、
山口百恵さん、薬師丸ひろ子さん、「夢で逢えたら」・・・

ご自身のアルバム 「A LONG VACATION」 は歴史的大ヒットア
ルバムであり、日本初のCDであり、ミリオンセラーであり・・・

  大瀧さんの音楽の功績は計りしれません。 未だに信じられませ
ん。 ショックです。 ご冥福をお祈りいたします」


桑野信義
  「大瀧詠一さんが亡くなったというニュースが!嘘だろ!嘘であ
って欲しい!

  シャネルズのデビュー前からお世話になった恩人だ。 シャネル
ズから ラッツ&スターに改名した時のアルバム第一弾をプロデュ
ースでオリコン3位。 Tシャツに口紅や星空のサーカスは松本隆さ
んとのコンビの曲でした。

  (中略)65歳での急死・・・早過ぎますよ大瀧さん!大瀧さん流の
冗談であって欲しい。 心より大瀧さんの御冥福をお祈り致します」


佐野史郎
  「お正月といえば炬燵を囲んでお雑煮を食べながら歌留多をし
ていたものです ・・・・ はっぴいえんどの 「春よ来い」 洒落にもな
らない。 大瀧詠一さん、安らかに」

佐野元春
  「大瀧詠一さんが亡くなりました。 日本の音楽界はひとつの大き
な星を失った。 でもその星は空に昇って、ちょうど北極星にように
僕らを照らす存在となった。

大瀧さん、ありがとう。ご冥福をお祈りいたします」


サンボマスター山口隆
  「嘘だ!俺は信じない!大瀧詠一がこんなに早くいなくなるはずな
い。俺は信じないぞ。

  大瀧さんは俺たちサンボマスターにも気さくに優しくしてくれたん
だ。俺たちは晩飯おごってもらってヒップな話を聞かせてもらったん
だ。 いなくなっちまうなんて信じられるわけないだろ。信じられるわ
けないだろ。

大瀧詠一さんは本当に、本当に偉大な音楽家だった。 古今洋邦
の音楽、その背景文化への膨大な知識とそれを血肉にする強靭な
好奇心と才能。

産み出される音楽はいつも真実とリズムとユーモアがあり、にも
かかわらずその表現の巨腕を少しもひけらかすような素振りもなか
った。

ご冥福をお祈りします。本当に最高な人だったなぁ。あー、本当に
ショックだよ ・・・・。大瀧さんそりゃないよ(泣)!ずっと大好きだー!!」


ROLLY
  「大瀧詠一様 あなたの作られた音楽、そして歌声は永遠に色あ
せる事無く私の心の中で燦然と輝き続ける事でしょう。

沢山の素敵な風景に魅せられ、豪華絢爛な音の洪水に浸らせて
頂きました。本当にありがとうございました。謹んでお悔やみ申し上
げます。

田舎道は青春そのもの、怪盗ルビイ、風立ちぬ、乱れ髪、NIAG
ARA MOON 名曲の数々が満天の星空を埋め尽くしナイアガラの
滝を下り、今極めて深い深いエコーの中を泳いでます。

あなたの音楽に包まれながら、不思議とな事に究極の幸福感を
感じています。 感謝意外に言葉はありません」


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《 大瀧詠一さんのプロフィール 》

  1948年、岩手県江刺郡梁川(現:奥州市)生まれ。 母子家庭で
育ち、母親が教師だったため小学校・中学校でそれぞれ転校を経
験している(小学校で江刺から遠野。中学で遠野から釜石)。

小学5年生の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスに衝撃を
受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。 中学入学後はラジオクラ
ブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送(FEN)やニッポン放送の
番組を聴くようになる。

  間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボ
ーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。

そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はす
べて覚えているというほど精通している。

洋楽面のみで語られがちだが、同時期には小林旭や三橋美智
也なども好んで聞いていた。 特にクレイジーキャッツの 「スーダラ
節」 には非常に影響を受けたという。

64年、岩手県のここに入学し下宿で一人暮らしを始めるが、授
業料を全部レコードにつぎ込んでしまい1年で退学させられ、ほか
の高校に編入した。 その高校で初めてバンドを組み、ドラムを担当。

  68年、早稲田大学第二文学部に入学。 ポップス研究会を立ち
上げるとともに、細野晴臣・松本隆らとバンド 「はっぴいえんど」 を
結成。

はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム
『大瀧詠一』(1972年)を発表。

はっぴいえんど解散後ソロ活動を本格化し、1973年には三ツ矢
サイダーのCMソング 「Cider '73」 を制作する。

自身のレコード・レーベル 「ナイアガラ」 を立ち上げ、「サイダー」
をシングルとして発売する計画で所属するレコード会社を探すも、当
時CMソングをシングルとして商品化することは考えられなかったこ
とで、どこに行っても断られるという状態であった。

最終的には1975年にエレックレコードに所属することが決定し、
アルバム 『NIAGARA MOON』(1975年)を発表。

また山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド、シュガー・ベイ
ブのプロデュースなどを行う。

ちなみに大瀧は日本3大アングラレーベルと呼ばれたアングラ・レ
コード・クラブ(通称URC)、エレックレコード、ベルウッド全てに在籍
した経験を持つ唯一のミュージシャンである。


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  75年には、ラジオ関東 『ゴー・ゴー・ナイアガラ』 でDJを務めるよ
うになったが、この番組でマニアックな洋楽やオールディーズの他に、
クレージーキャッツ、坂本九、弘田三枝子を中心とする日本の '60S
ポップスや、三橋美智也や小林旭などの曲をかけ、カルト的な人気
を博し、『ゴー・ゴー・ナイアガラ』 は1979年からはTBSに移り、長期
人気番組となった。

80年、CBSソニーに移籍。 81年、松本隆と組んだアルバム 「A L
ONG VACATION」がミリオンヒット、商業的な大成功を収め、このあ
との数年間上で紹介したような活躍を見せる。

  その後、歌手としての活動を休業。

  歌手 「大瀧詠一」 としてのライブ活動に関しては 85年の 「はっぴ
いえんど」 再結成ライブなど 「大瀧詠一」 以外のものを除くと、83年
7月に西武球場で行われた、サザンオールスターズ、RATS&STAR
と競演した 「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83」 以後は一切
行っていない。

  それに伴い、「快盗ルビイ」(小泉今日子、1988年)などの楽曲提
供以外では新曲を発表することもなくなった。

  しかし1997年には12年ぶりにシングル 『幸せな結末』 を発表、月
9ドラマ 『ラブジェネレーション』 の主題歌としてミリオンセラーを達成。

2003年には6年ぶりのシングル 『恋するふたり』 を発表。 同じく月
9ドラマ 『東京ラブ・シネマ』 主題歌となったが、これが最後の作品発
表となった。


《 歌手としての活動を休止したあと 》

  新作発表はしなくなったが、2005年より 「ナイアガラ不滅プロジェ
クト」 と題した各アルバムにおける30周年記念事業を展開し、自身
でマスタリングを行い、解説を新たに書き下ろし、さらにボーナストラ
ックを追加し再発売している。

2010年 「山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック」 にお
ける 「新春対談」 で 「ナイアガラ不滅プロジェクト」 の終了に際し、全
てのナイアガラ作品をBOXにして発売する予定であると語っていた。

2011年3月21日には、「A LONG VACATION」 の30周年記念盤
の発売に合わせて、NHK-FMにて 『今日は一日大瀧詠一三昧』 と題
して、10時間余りに渡って特集が放送された。


大瀧さんは50年代から70年代にかけてのアメリカのポップス・ロッ
ク、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての
豊富な知識をもっていました。

  それらを駆使して制作される音楽は、普通のポップスに聞こえても
分析すると実は非常にマニアックという、本人曰く 「趣味趣味音楽(シ
ュミシュミミュージック)」 となっている。

独自の音楽理論をもち、90年代に隆盛を誇った渋谷系のように
他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。

1984年にアルバム 『EACH TIME』 を発表して以降、歌手活動
を休業。

  自身では69年から84年までの15年を 「行動の時代」、84年から
99年までの15年を 「(行動の時代の)説明の時代」 と位置付けて
いた。 近年は自嘲的に「勉強家」とも称していた。

楽曲のマニアックさを語る一例として山下達郎がしばしばラジオ
でする話によれば、大瀧に 「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」
と訊ねると大瀧は 「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君
は3曲しかわからなかったんだ」 とジョークとして逆に責められたと
いうこと。

  また、定期的に自身の作品群をマスタリングするなどし、多くの
「バージョン違い」 が存在することでも有名。


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  さらに、自ら 「音頭好き」 と称して多数の音頭を発表してもいる。

最近のメディアへの露出は 『山下達郎のサンデーソングブック』
での 「新春放談」 出演時と坂崎幸之助がDJを務める 『K's TRAN
SMISSION』(NACK5)の年に一回程度のゲストとして出演。

  その他は、NHK-FMなどのラジオ番組での単発の特集への出
演、自身のアルバムのリミックス盤に関して 『レコード・コレクター
ズ』 誌上へ寄せる解説文などにほぼ限定され、近況の写真などは
ほとんど公表されていなかった。


《 勉強家という一面 》

  諸芸能を始め、様々な分野についての深い見識を持ち、交友
関係が広いことでも有名であった大瀧さん。

  自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが
(『分母分子論』 『ポップス伝』 のように紙上・ラジオ上でその成果
を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで
“関連性”を基底に置いて研究していることが 「勉強家」 と称する
ゆえんである。

同じように日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田
春夫がいるが、彼には多数の著作があるのに対し、大瀧の 「音楽
研究」 のメインの発表舞台は 「後に残らず消えてしまう」 ラジオ放
送であった。

 今後、ラジオ放送のCD化・書籍化、あるいは、本格的な著作の
刊行が待たれる。






《 後世への影響 》

  日本のポピュラー音楽に与えた影響には小さからぬものがあり、
特に山下達郎の一部の作品、渋谷系などへの影響を指摘する声
もある。

早くからのCMソングの重視についても、その後のニューミュー
ジック・J-POPにおけるCMや番組とのタイアップという路線の先駆
をなしている。

  音楽プロデューサーの小林武史もラジオで 「はっぴぃえんど」
を特集するなど、非常に影響を受けていると語っており、タイアッ
プの話が持ち上がった際に大瀧の自宅まで出かけ相談したそう
である。

  桑田佳祐は英語の発音から意味不明的な歌詞を作ることで有
名だが、「それは僕が先にやっていたんだよね」 と大瀧さんは語っ
ており、実際、その様な歌詞は多く見られる。

  桑田はラジオで 「こんばんわ、大瀧詠一です」とモノマネをする
こともあった。


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