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チェッカーズというのは80年代当時こういう存在だったのです [芸能]

当時を知っている世代の人間として、「チェッカーズ」 とはどういう存在で
あったのかについて、当時の世相をまじえて、できるだけわかりやすく説明
していきたいと思います。

  チェッカーズがデビューしたのは1983年。

  そこでまず、1983年というのはどういう年だったのかについて簡単にふ
り返ってみましょう。

  政治的にいうと、中曽根-レーガンの時代です。 経済的には、バブル崩
壊以前の、日本が非常に元気があった時代で、世界中に日本製品があふ
れかえり、日本が国際的にも絶賛されていた時代です。

  一方、文化的な面では、4月に東京ディズニーランドが開演。 NHK連続
テレビ小説 「おしん」 が放送され、ドラマ歴代最高視聴率52, 6%を記録し
た年。

  また、カシオが「G-SHOCK」 の発売を開始。 戸塚ヨットスクール事件。
阪急の福本豊選手が939盗塁の世界新記録を達成。 任天堂がファミコン
の発売を開始。

甲子園でPL学園の桑田・清原のKKコンビが活躍。 大韓航空機撃墜事
件。三宅島の大噴火。 劇団四季 「キャッツ」 の公演が始まる。 YMOの解
散コンサート。 相撲は千代の富士の時代。

 ・・・・・・ ざっと、こんなカンジの年でした。

  つづいて、当時の芸能界の様子をふり返ります。

  当時はアイドル全盛期、というか、歌謡界そのものの全盛期と言っても
イイかもしれません。 現在とはちがう構造であった音楽界の最後の時期
にあたります。

  具体的には、松田聖子、中森明菜、小泉今日子などの全盛期。 ジャニ
ーズでいうと、トシちゃん、マッチ、そしてその下のシブがき隊の時代です。
ちなみに、ドラマ 「あまちゃん」 で描かれたのは1984年でした。

  その他、当時活躍していた歌手の名を挙げると、わらべ、杏里、アルフィ
ー、西城秀樹、郷ひろみ、風見しんご、薬師丸ひろ子、山下達郎、長渕剛、
尾崎豊、松山千春、ユーミン、サザン、オメガトライブ。

  演歌系の森進一、五木ひろし、大川栄策、日野美歌、森昌子なども活躍
していました。

  海外では、マイケル・ジャクソンがグラミー賞10部門で受賞。カルチャー
クラブ、デュランデュラン、ビリー・ジョエル など。

  映画でいうと 「フラッシュダンス」 「南極物語」 「戦場のメリークリスマス」。
ドラマでいうと 「ふぞろいの林檎たち」 「金曜日の妻たちへ」 「スチュワーデ
ス物語」

  「機動戦士ガンダム」 の放送開始が1979年、「風の谷のナウシカ」 が84
年、「北斗の拳」 の連載開始が83年、「ドラゴンボール」 が84年。


  ほかのサイトを見回したところ、「チェッカーズは1983年に鮮烈なデビュ
ー」という記述がいくつか見られましたが、それは正確ではありません。

  チェッカーズのデビュー曲は 『ギザギザハートの子守唄』 という曲なので
すが、このデビュー曲はあまり売れませんでした。 ブレイクしたのは2曲目の
『涙のリクエスト』 という曲です。 


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  じつは、これは松田聖子と中森明菜にもあてはまることで、この2人もデビ
ュー曲は期待したほど売れず、大ヒットしたのはデビュー2曲目です。

  聖子の場合、デビュー曲は 『裸足の季節』 という曲で、この曲は資生堂
「エクボ洗顔」 という洗顔石鹸のCMソングにもなったのですが、松田聖子
の名前が世間に知れ渡るというほどのヒットには至りませんでした。

  そして、続く2曲目の 『青い珊瑚礁』 がザ・ベストテンで1位に輝く大ヒット。

  ちなみに、ベストテンで初めて1位になったとき、生放送中に聖子がスタジ
オから福岡の実家の母のもとに電話をかけました。

  その際、感極まった聖子が 「おか~さ~ん ! 」 と言って、小さい女の子の
ように泣きだしてしまったのですが、この姿を世間が揶揄して 「(かわいこ)ブ
リッ子」 と呼んだのがこの言葉の始まりです。

  また、もう1つのエピソードとして、「エクボ洗顔」 のCMはもともと聖子自身
が出演する予定で話が進んでいたのですが、聖子がいくら練習してもエクボ
をつくることができなかったので、やむなくエクボができるほかのモデルが出
演することになりました。

  さらにもう1つ。 松田聖子はデビュー当時から歌がとても上手かったのです
が、「歌手として成長していく姿を見せていきたい」 というプロデューサーの方
針によって、デビュー曲はワザと下手に歌ってレコーディングしたということです。


  一方、中森明菜のデビュー曲は 「スローモーション」 という曲だったのです
が、こちらも期待するほどの売れ行きを示すことはできませんでした。

  じつは明菜は、デビュー曲については聖子と同じような正統派、清純派お
嬢様キャラとして売り出されました。 なので、 「スローモーション」 はミディア
ムテンポのラブソング、衣装もロングスカートのドレスといういでたちでした。

  この路線で結果がでなかった明菜は、2曲目では180度転換して 『少女A』  
という、援助交際をテーマにしたと思われるスゴイ曲を歌います。

  結果、この路線が大当たりして、以降の明菜はどちらかというと大人っぽい
「イイ女」 キャラを演じていくことになりました。

  ちなみに、この 『ギザギザハートの子守唄』 は84年に当時15歳だった松
居直美がカバーして歌いました。


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  それでは、いよいよチェッカーズの話です。

  もともと福岡県で結成され、活動し始めたグループなのですが、ヤマハ主
催のコンテストで優勝したことをきっかけに上京し、メジャーデビュー。

  デビューするにあたって、売り出す側の方針として、「チェッカーズ」 という
名が示すとおりメンバー全員が独特のチェック柄の衣装を身にまとうという奇
抜なスタイルがとられました。

  このキャラは 「イヤイヤながらやらされている観」 があって、見る側からす
ると多少 「イタイ」 感じがありましたが、小柄なフミヤにはこの衣装がよく似合
っていて、それなりにハマってはいました。

  ここで1つ確認しておきたいのは、チェッカーズはグループとして売れては
いたのですが、それはひとえにヴォーカルである藤井フミヤ個人の圧倒的な
アイドル的人気によって成り立っていたということ。

  高杢、鶴久、藤井尚之、クロベエなど、ほかのメンバーも名前と顔が広く知
られるようになっていきましたが、それはあくまでもフミヤの人気を入口として
世間ががほかのメンバーにも関心を持つに至ったということです。


  さて、上で述べたようにデビュー2曲目の 『涙のリクエスト』 が大ヒットし、チ
ェッカーズは一気にブレイクします。

  そして、その後順調に6曲目まで大ヒットがつづきます(哀しくてジェラシー、
星屑のステージ、ジュリアに傷心、あの娘とスキャンダル)。

  チェッカーズはこの間、短い間ではありましたが、1度は 「天下を取った」
と言っていいと思います。


  その後、85年7月発売の7曲目あたりから徐々に売れ行きが下降していき、
やがてチェッカーズは厳しい現実に直面する運命となってしまいます。

  デビュー以来、プロデュースされたキャラクターバンドとして、与えられた楽
曲を歌い、演奏していたチェッカーズですが、メンバーたちは当初から 「はや
くこのキャラから卒業させてほしい、 曲についても自作のモノをやりたい」 と
いう思いが強かったようです。

 11曲目にあたる、86年10月発売の 『NANA』 に至ってようやくその希望
が叶い、以降は普通の衣装、自作の曲で活動していくことになるのですが、そ
の途端、パッタリと売れなくなってしまったのです。


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  もしかすると何か業界の圧力がかかったのかもしれませんが、結局は、自
作の曲でやっていくには実力が足りなかったということになるのだと思います。 

  これは、かつて 「フィンガー5」 がたどったのとまったく同じパターンです。

  しかし、曲の売れ行きは大幅に衰えたものの、チェッカーズの人気はその
後も続きました。

たとえば、NHK紅白には解散した92年まで9年連続で出場。 最後の紅白
では、功績を称える意味でチェッカーズが大トリを務めるという案もあったよう
です。 

  くり返しますが、藤井フミヤはほんとうに人気がありました。 雑誌 『anan』
恒例の 「抱かれたい男」 で1位に輝いたことも数回あったと記憶します。

  
そして もう1つ強調したいのは、チェッカーズの全盛期は吉川晃司の全盛
期とピッタリ重なっているということ。

  藤井フミヤと吉川晃司、この2人はまさに個性が両極端、対照的で、当時
の女子は 「かわいいタイプ」 のフミヤを好む人と 「かっこいいタイプ」 の吉川
を好む人の2派にわかりやすく分かれていたということです。 
 
  ちなみに、吉川晃司 もアイドルとして売り出されましたが、ジャニーズ的な
アイドルではなく、吉川晃司 主演の映画の公開もあわせた、往年の映画俳
優のような大物路線がとられていました。

  しかし、やがて吉川は自らのアイドル路線を自分の意志で脱ぎ捨てていき
ます。 吉川晃司のかっこよさの中には、そういった吉川自身が持つポリシー
のかっこよさも含まれています。

  吉川晃司 4枚目のアルバム 『MODERN TIME』 は最高のアルバムなの
で、ぜひ1度聴いてみてください。 絶対オススメです。


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  ところで、当時と現在とでは 「イケメン像、イイ男の理想像」 自体が異なっ
ているというコトがあります。

  当時は、「男らしい」 オトコは人気がありませんでした。 坊主アタマをカッ
コイイと解釈する感覚もありません。 無精ヒゲなども 「= 不潔」 という感じ
で受け取られていたと思います。

  それよりも、男臭さを感じさせない 「かわいいタイプ」、まさに藤井フミヤの
ようなタイプ が圧倒的に好まれる時代でした。

  このへんの感覚は、当時放送されていた 「3年B組金八先生 part 3」 を
観るとよくわかります。


  ・・・・・・ さてさて、その後チェッカーズは、バンドの解散をめぐって泥沼の
みっともない姿をさらしてしまいました。 ヴォーカルの人気によって成り立っ
ている、比較的人数が多いバンドに起こりがちな典型的な問題です。

  こちらの事情については、かつて 「内山田洋とクールファイブ(ヴォーカ
ル前川清)」 がたどったのと同じパターン。

  実際はお金の問題だけではないのかもしれませんが、お金の問題だと
思われても仕方のないトラブルなので、見ている方としてはあまり気持ちの
いいものではありません。

  フミヤと高杢が幼稚園の頃からの幼なじみであったことが、さらにお互い
の感情を複雑にしている面があるのでしょう。

  実際にどんなことがあったのかについては本人たちにしかわかりません
し、もしかするとフミヤがひどい裏切り行為をしたのかもしれません。

  しかし、そうであったとしても、それを世間にチクるような高杢の態度に
は多少疑問を感じてしまいます。

  仮にも自らアイドルを名乗っていたワケですから、そういうコトを表に出
すのはちょっと違うような ・・・・・・

  せめてクロベエさんの葬儀の際には、その場だけでも和解した姿を見せ
てほしかったです。

  最終的に和解した姿を見せてくれない限り、人々がチェッカーズを語る
際には、どうしてもこの話題になってしまうと思うのです。

  チェッカーズと同時代を過ごした人たちにとって、それはとても悲しいこと
です。

  これからでも遅くはないので、どうか仲直りしてほしいところです。


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