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高崎一郎 さんの死去とその勝ち組人生について [ニュース]

  高崎さんがこんな背景と経歴をお持ちの方だとはまったく知りませ
んでした。 ここまでやれば悔いのない人生、大往生だと思います !
さらに、高崎さんの本名にはびっくり仰天しますよ ! !

 テレビ東京 「レディス4」 の司会でおなじみだった、また 「オールナ
イトニッポン」 初代パーソナリティ として知られていた高崎一郎さんが
8月10日、老衰のため 82歳でに亡くなられました。

 なお、大往生を遂げられたということで、あまり暗くならずに普通のテ
ンションでお伝えしていきます。

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  この記事を書くために高崎さんのことをイロイロと調べたのですが、
びっくり仰天してひっくり返ってしまいました。

 僕の中での高崎さんのイメージは、ほとんど 「レディス4」 のみだった
ので、“地味な番組の垢抜けないオジサン” ぐらいにしか思っていなか
ったのですが、それはとんでもない間違いでした。

 じつはこの高崎さんは、エリートインテリオシャレハイソサイエティバイ
リンガルナイスガイジョニー でした。

 お父様は外交官で、日本大使館員として英国に赴任。 そのため高崎
さんはロンドン・オックスフォード生まれだということ。

 両親に代わってメイドによって育てられたため、 幼少期には日本語が
ほとんど話せなかったそうです。

 本名はなんと、“俊威・ジョニー・高崎” (俊威 = としたけ)。

 小学校3年生のときに太平洋戦争が開戦。 一家で帰国することとなり、
ジョニーは初めて祖国の土を踏みます。

 その後、学徒動員の際には戦争捕虜の通訳を担当しました。

 青山学院大学に入学し、在学中にアメリカに留学。 南カルフォルにア
大学を卒業しました。

 卒業後もアメリカに滞在。 このときに放送ビジネスやディスクジョッキ
ーに興味をもったようです。

 帰国後、豊富な知見と語学力を買われて後発局のニッポン放送にプ
ロデューサーとして入社。 外国人タレント招聘を含む渉外業務、ニュー
スの翻訳、番組総括まで幅広く手掛けるかたわら、当時の社会主義諸
国以外の多くの国を取材して回った。

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 しかしその後、プロデューサーという裏方の仕事から黎明期のラジオ
パーソナリティーに転身した。

 深夜ラジオ番組の草分け 『オールナイトニッポン』 には企画立案段階
から関与し、進んで初代パーソナリティもつとめた。

 「奥様、お嬢様、泣いて喜ぶ、あ・な・た・の・ジョニー高崎」 などの文句
と、ソウルをノンストップで掛けるディスコスタイル等が特徴的であった。

 ミュージシャンの大滝詠一は、高崎のことを 「自身の少年時代のアイド
ル」 として挙げている。

 この間、引き続きライナーノーツ執筆や訳詞、海外タレントとの交渉契
約業務から通訳、音楽評論、ペンネームによる流行曲の作詞まで幅広く
手掛けた。

 その後、系列のフジテレビに活躍の舞台を移して 「オールナイトフジ」
初代司会者に抜擢される。 時折べらんめぇ調の本音もまじえたトーク等
を交えていた。

 放送媒体を活用した通信販売事業にも着目し、同じ構想を抱いていた
三越専務の岡田茂とともに、70年10月に本邦初のテレビショッピングコ
ーナーを含む実験的生放送番組 「東京ホームジョッキー」 (後の 「リビン
グ4」)を企画立案した。

 高崎はこの功勲をもって三越の顧問に招請され、またフジサンケイグル
ープのリビング路線(サンケイリビング新聞、ディノス、ESSE)の基盤をも
をも築いた。

 76年には純邦楽番組 「キンカン素人民謡名人戦」 の代理司会者を務
めたこともある。

 フリーに転向後も、「リビング2」 「リビング4」 の流れをくむ 「レディス4」
のメインキャスターを長年つとめた。

 また、三越のイベントの企画立案からオリジナル商品の開発、司会進行、
客の着物の見立てなど担当したが、体調不良を理由に 「レディス4」 から
は03年2月をもって降板した。

 なお、高崎さんが降板したあとの 「レディス4」 は司会者が定着せずに交
代につぐ交代という状況に陥った。


 ・・・・・・ 高崎一郎さんがこのような経歴をお持ちの人だとはまったく知り
ませんでした。

 これだけ幅広い経験と活躍を、しかも長年にわたって成してきたのであれ
悔いのない人生だったと言えるのではないでしょうか。

 うらやましい限りです。 ご冥福をお祈りします。

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