SSブログ

クマ撃退スプレー 小学校 蜂  【出血大サービス! 三毛別羆事件ダイジェスト】 [ニュース]

 7日、岐阜県の公立富加小学校の2年生の教室で、教室に入って
きたスズメバチを追い出そうと、担任の男性教師が 「クマ撃退用ス
プレー」を噴射したところ、教室内の生徒がノドの痛みや目の痛みを
訴えた。

 この影響で、上の階にいた4年生の生徒らも同様の異常を訴え、
合計36人の生徒が市内外の6ヶ所の病院へ搬送された。

 県警加茂署によると、教師が噴霧したスプレーは、唐辛子の辛味
成分「カプサイシン」などが入っていた。 「カプサイシン」は刺激性は
強いが毒性はないという。

 教師は職員室で男性事務員から殺虫スプレーとクマ撃退用スプレ
ーを受け取り、まず殺虫スプレーを噴霧した。 しかし追い出せなかっ
たために他方のスプレーを使用したという。 富加町では年に数回程
度クマの出没情報があったため、学校でも数年前から安全のために
クマ撃退用スプレーを職員室に常備していた。

 4年生の女子生徒は「臭い匂いがしてみんなが咳をしていた。 倒
れた子もいた」 と話し、男子生徒も 「目が痛いとみんなが騒ぎ出した。
息ができない感じになって気持ち悪くなった。 2年生は泣いていた」
と話した。

 学校ではその夜、臨時の説明会が開かれた。

 日本に生息するヒグマは、オスの成獣で体長2.5~3m、体重は25
0kg ほどで、メスは一回り小さい。

 クマ撃退用スプレーは駆除剤というよりも武器という性格が強い。 値
段も1万円前後と高価であり、撃退スプレー専用のホルスターまである。


【 三毛別羆事件 】

 1915年(大正4年)12月9日から14日にかけて、北海道苫小牧で
発生した日本最大の獣害事件である。 ヒグマが数度にわたって民家を
襲い、開拓民7名が死亡。 3名が重傷を負った事件。 討伐隊が組織さ
れ、問題のクマが銃殺されたことで事件は終息した。 ヒグマは体長2.7
m、体重340kg であった。

 全体のストーリーはかなり長いので、ショッキングな箇所をダイジェスト
でお伝えします。

 舞台は、人が入ったばかりの開拓村。 数家族が小屋を建てて暮らして
いる。 それぞれの家族が暮らす小屋は、お互いにかなり離れている。
冬の北海道なので当然深い雪に覆われている。

 11月初旬、一軒の小屋に初めてクマが現れる。 飼い馬が驚いて騒い
だため、そのときの被害は軒先に吊るしたトウモロコシのみ。 しかし家主
の富蔵は、のこった足跡の巨大さに懸念をもった。

 20日、クマが再び出現するが、小屋に近づいたり離れたりを繰り返す。
富蔵はその間に2人のマタギを呼んで3人で待ち伏せる。 そして再び現
れたクマに発砲し命中するが、クマは逃走。

 マタギは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し
損ねたクマであると判断。 足跡の巨大さから 「このクマはあまりの巨体
のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と
推測しながら、最後に「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であること
を付け加えた。

 12月9日、別の小屋で最初の被害。 家主がきたくすると、子供がのど
を裂かれ側頭部に親指大の穴が穿たれて息絶えていた。 もう一人、子
の母親の姿が見えない。 状況から、まさかりや燃え盛る薪を武器に抵抗
するが殺され、血まみれの死体をクマが持ち去った。

 翌朝捜索が開始、クマを発見するが逃走。 付近から足のひざ下の部
分と頭部の一部が発見される。


 ・・・・・・ その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。 かぼちゃを
煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中ランプなどの
灯りも落ち、家の中は暗闇となった。ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐
怖のためにすがりついてきた次男・勇次郎に足元を取られよろけたところ
にヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた。

そのまま三人はヒグマの手元に引きずり込まれ、ヤヨは頭部をかじられ
た。その時、唯一の男手だったオドが逃げようと戸口に走った姿に気を取
られたヒグマは母子を離し、この隙に乗じヤヨは子供たちを連れて脱出し
た。追われたオドは物陰に隠れようとしたがかなわず、ヒグマの牙を腰の
あたりに受けた。 オドの悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、屋内に眼
を向けた。

そこには未だ7人が取り残されていた。 ヒグマは明景家の三男・金蔵と
斉藤家の四男・春義を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌に噛みつい
た。 この様子に、野菜置き場に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケがむし
ろから顔を出してしまい、この女もまたヒグマの標的となった。ヒグマの爪
にかかり居間に引きずり出された身重のタケは「腹をやぶらないで」 と子
供の命乞いをしたが、それも空しく上半身から食われ始めた。

 川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ
重傷のヤヨがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途
中オドを保護し、男性たちは明景家を取り囲んだ。 しかし、暗闇となった屋
内にはうかつに踏み込めない。 中からはタケと思われる女のうめき声、そし
て肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。

一か八か家に火をかける案や闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、
子供らの生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。 一同は二手に分か
れ、一方は入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りはりは
家の裏手に回った。 そして裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を
破って、表で待つ男性たちの前に現れた。 先頭の男性が撃とうとしたが、ま
たも不発。他の者も撃ちかねている隙に、ヒグマはまたも姿を消した。

 ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の眼に飛び込んで
きたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂か
れた二児とタケの遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児
が引きずり出されていたがヒグマが手を出した様子はなく、その時には胎児
は少し動いていたという。 しかし、胎児も一時間後には死亡した。

明景家の長男・力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ殺戮の一部始終を
目撃していた。明景家の長女・ヒサノは失神し無防備なまま居間で倒れてい
たが不思議と彼女も無事だった。急いで生存者を保護し遺体を収容した一
行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争帰り
の者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。
肩や胸にもかみつかれた傷を負う巌の左大腿部から臀部は食われ骨だけ
になっていた。


 ・・・・・・ 頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復した
が、背負われたまま噛みつかれた明景梅吉は、その後遺症に苦しみつつ2
年8ヶ月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。

 同じ家でヒグマの襲撃から生還した明景勇次郎は事件の27年後に太平洋
戦争で戦死した。オドも回復し翌春には仕事に戻ったが、帰宅時に川に転落
して死亡した。 ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。

事件は解決しても村人に心理的恐怖を残した。 村外を頼れる者は早々に六
線沢を去ったが、多くはそのようなつてを持っていなかった。壊された家屋を
修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火に当たりながらなんとか越冬した。

しかし、春になっても村人は気力を取り戻せず、太田三郎は家を焼き払って
羽幌へ去った。 その後一人また一人と村を去り、下流の辻家を除いて最終的
に集落は無人の地に帰した。

 ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950
年に92歳で亡くなった。 彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超え
るという。


 

 



 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

ヨンア 離婚 理由は? [ニュース]

 韓国出身のモデル、ヨンアが今月5日に離婚したことが7日明らかと
なった。 本人が事務所を通したFAXで報告したもの。 ヨンアは2009
年9月、一般男性と結婚したが、約4年に及ぶ結婚生活にピリオドが打
たれた。

 自身の公式ブログでも離婚を報告したヨンアは、「いきなりビックリな
ご報告となってしまったこと本当にごめんなさい」 と謝罪。 「二人でじっ
くり話し合いお互いの気持ちを認識して出した結論です。 これからは
新しい人生と向き合って前に進んでいきたいと思っています」 という心
境が綴られている。

 元夫についてヨンアは「別々の道を進むことになったけれど、一緒に
過ごした時間は自分にとって大切なもので、感謝の気持ちでいっぱい
です」 と気持ちをのべた。

 所属事務所によれば、ヨンアは今後も仕事を続けていくという。

 ・・・・・・ 2人は結婚後も別々の国で暮らしていたということで、そもそ
もコミュニケーションも少なかったのではないでしょうか?

 たとえば矢口さん夫妻のように愛憎劇とか情念を抱くとか、つながり
がそこまで達していなかったように思われますね。 ケンカとかいさかい
とかそういう感じではないようです。 コメントからもそれが読み取れる
ような気がします。

 そういう意味では、今後もお互いに最大の協力者になれるのではな
いでしょうか? いい意味での発展的解消と言えるのかもしれません。

 そうだといいですね。 他人事だとしても、憎みあっての別れというの
はやはり見ていてツライものがありますので ・・・・・


【ヨンアのプロフィール】

 ヨンアは、日本を拠点に活動している韓国のファッションモデルであ
る。 1985年生まれ。 ソウル出身。 身長173cm、体重は42kg。

 高校時代にスカウトされ、それをきっかけにテレビCMやテレドラマへ
に出演するようになった。 その後2003年、日本ファミリーマートのアジ
ア地域広告モデルに抜擢され、その後活動の拠点を日本に移した。

 2004年からは女性誌 『Oggi (オッジ)』 の専属モデルとして活動し、
多くのテレビCMに出演。

 20代~30代の働く女性に広く支持され、「丸の内のミューズ」 の呼び
名をもつ。 2012年に 『Oggi (オッジ)』 を去ったのちも、多数のファッ
ション誌うぃはじめ、各種のテレビCMやテレビ番組などへの露出を通し
て幅広い人気を得てきた。

 テレビに出演するようになってからも、神戸コレクション、東京ガールズ
コレクションなどのショーイベントにも多数参加。 さらに、多くの企業のイ
メージキャラクターにも起用される。

 2008年、韓国の名誉広報大使に就任し、09年からはNHK教育「テレ
ビでハングル語講座」 にも出演している。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

北陸新幹線 開業 いつするの? 長野~金沢間のことだよぉ~ 人のはなし聞いてんの? [ニュース]

 2014年度の北陸新幹線、東京~金沢の開業まであと2年を切り、
JR東日本は旅客増に向けたPR活動を本格スタートした。

 6月7日から7月3日まで、JR上野駅の地産品販売店 「のもの」 で
は石川県の野菜や海産物、菓子などの特産品約200品目を販売す
る。 さらに、富山県や福井県などの県産品も順次出品し、北陸新幹
線の集客効果を高める考えだ。

 昨年1月にオープンした地産品販売店 「のもの」は、各地の特産物
などを販売し、また地域の食材の食べ方などを紹介している情報発
信型ショップ。 JR東日本と石川県が協力して北陸の特産品を紹介し、
旅行客の増加をめざす。

 7日は午前11時からの石川県産品販売開始に合わせて、来店客
先着100名 に石川県出身の写真家、織作峰子さんが作成したポスト
カードがプレゼントされる。 土日には特産品の試食会も実施。

16日には店舗前広場で、北陸新幹線開業イベントが開催される。
そこでは金沢芸妓による踊りや唄、三味線をなどを披露するほか、加
賀野菜や伝統工芸グッズなどがプレゼントされる企画もある。

 また、JR東日本は7日、北陸新幹線において「上越」 と仮称していた
新潟県内駅名を「上越妙高」と決めたことを発表した。

 加えて、富山県内の2つの新駅名を「黒部宇奈月温泉」、「新高岡」
とすることが、JR西日本から発表された。

 北陸新幹線は、上信越・北陸地方(日本海側)を経由して東京と大阪
とを結ぶ予定の整備新幹線である。 1997年に東京~長野間が部分
開業しており、この区間は便宜的に「長野新幹線」 と呼ばれている。

 2014年12月には、長野~金沢間が開業する予定である。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

被爆人形 撤去 署名  【被爆人形撤去問題の解決方法はコレだ ! ! ! 】 [ニュース]

 広島県原爆展示資料館に展示されている 「被爆再現人形」 が、同館の
全面的なリニューアルに伴い、2016年度に撤去されることになったが、
それに対し、撤去に反対する署名1700人分が6日、同館に提出された。

 ネット署名サイト「Change.org」で広島市の会社員、勝部晶博さんらが
3月末から署名活動をしていた。 署名を届けた勝部さんは「実物中心の展
示に反対しているのではない。積極的に撤去しなければいけない理由がな
いなら展示を続けてほしい」と訴えた。

 資料館は展示内容を全面的に見直し18年度にグランドオープンする。人
形は大やけどを負って逃げる様子を表現し、被爆直後の悲惨さを伝えてい
るが、被爆者から「実際にはあんなものではなかった」 と再現性を疑問視す
る声もあり、10年7月に取りまとめた基本計画で 「撤去または代替展示が
望ましい」とされた。

 2万点を超える被爆資料の活用方法を検討している資料館 「実物中心の
展示にしてありのままを伝える」 との方針だ。

 しかし、資料館でピースボランティアを務める被爆2世の永原富明さんは
人形が担う 「継承者」 としての役割を強調する。

 撤去決定後には人形の前で丸1日とどまり、100組近い親子にガイドした。
驚いたり怖がる子供もいたが、何よりまず足を止める。 そして「こんなひどい
ことがあったんじゃよ。よう見て帰るんよ」 と話しかけると、子供たちは真剣に
聴き入っていたという。

 反対意見も紹介しよう。

 資料館の担当者は「多くの人が言う 『怖いから撤去する』 というのは誤解
だ」と説明する。 「実物中心の展示」 という方針をとったのは、被爆の悲惨さ
を、「事実そのままをありのままに伝える」 ためである。

 それにはやはり、客観性のあるもの、つまり、被爆建物の壁や爆風でゆが
んだ鉄の門、焼け焦げた衣服などの実物、また損傷の激しい遺体の写真な
どが適切ではないか。 「場合によっては、子供にとっては今以上に恐ろしい
ものになる」 と主張した。

 思うに、被爆の悲惨さを伝えるたには「人形と実物のどちらが」 適切か?
というのは、物事を小説で伝えるには、「写実主義とロマン主義」 のうちどち
らがふさわしいのか? と問うのと同じであって、あまり意味がない、または
問いの立て方自体が間違っているように思えます。 どちらの方針をとったと
しても、そのやり方次第、工夫次第でよく伝わると思います。

 もう一つ気になるのは、やはり誇張はよくないわけで、「被爆の悲惨さを伝
える」 という言い方自体おかしいのではないでしょうか? すでにそこには価
値判断が入ってしまっています。 本来は「被爆の現実を」 または「被爆の実
態を伝える」としなければならないと思います。

 しかし一方では、僕自身、子供の頃に図書館で読んだ 『はだしのゲン』 の
印象が今でも強く残っているというのも事実です。 とくに、手の皮がダラーン
と垂れ下がっていた絵は忘れられません。

 確かに、人の心に訴えるためには、客観的な事物よりも芸術作品のような
デフォルメされたものの方が印象が強いと言うのはあると思います。

 ということは、新しい資料館が「どういう目的・趣旨を持っているのかといこと
を確認する」 ことが先でしょう。 つまり、史料館は客観的な記録を後世に残し
たいのか、

 それとも、後世の人々に対して「二度と同じことをしてはいけない ! 」 という
戒めを与える、もっと言うと、経験者の立場で 「こういうことをするのは、永久
に禁止する ! 」 とそこまで言いたいのか、そのどちらなのかというのをまず確
認するということです。

 言い換えると、後世の人々が核戦争を行なおうとしているときに、その判断
の材料にしてもらうための資料館なのか、それとも、永久に禁止するための
理由づけとしての資料館にしたいのか、そのどちらなのかということです。

 ・・・・・・ これは、憲法9条の改正についての論議と同じですね。 ここまで書
いてそのことに気づきました。
 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。