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きゃりーぱみゅぱみゅ論 カップ 新曲 動画  【 2013年8月15日 大幅に加筆 】 [音楽]

 2013年8月15日、大幅に加筆しました。 1度読んでくださった方もぜひ再
読を ! ! きゃりーぱみゅぱみゅ についてイロイロな面からタップリと語ってい
ます。ときどき脱線してきゃりー以外の話もあります。 画像も動画もたくさん ! !

  きゃりーぱみゅぱみゅ について知り始めたころ、「この娘はナゼこんなに売
れて、しかも、どうして海外でまで人気があるんだろう?」 と思っていた。 パッ
と見では、それほど大物アーティストのような感じはしないし。

 しかし、今やきゃりーぱみゅぱみゅの人気は遥か国境を越えている。 フラン
スや北欧のネットチャートでは、日本人としては初めて栄えある1位に輝いた。

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日本武道館でピンのライブを行った彼女は、フランスの Japan Expo Live
を皮切りに、なんとワールドツアーまで実現させてしまった。

 ちなみに Japan Expo には、日本のアニメ やコスプレ文化を目当てに現地
のオタクたちが多く駆けつけたようだ。

動画では、きゃりーぱみゅぱみゅと握手ができるということで行列に並んでい
た現地オタクと思われる女の子が、自分の番が近づくにつれて、とうとう感極ま
って泣き出してしまうという場面もあった。

 彼女のコンセプト 「カワイイ」 は海外で相当支持されているようだ。 僕らがき
ゃりー見る目線とくらべると、彼ら外国人の目線では、きゃりーに“異国情緒” と
いう要素がプラスアルファとして加わるということになる。

 フランスの人たちは昔から日本の文化をとても好んでくれていて、19世紀、
日本でいうと江戸時代末期には “ ジャポニズム ” という文化的、芸術的な流
行が起こった。

 とくに北斎、広重などの描いた浮世絵は絶賛されて、ゴッホや印象派の画家た
ちはみな大きな影響をうけた。



さて、今までにも幾人かのアーティストが欧米での成功を目指して打って出た。
「日本はもう極めた。ならば世界を」 ということだ。

古くはYMO。 ただしこの人たちの場合、日本よりも “向こう" の方が自分た
ちを受け入れてくれるのではないか? というカンジだったと思われる。 だから
レコードジャケットには思いっきり東洋色を込めた。

次に松田聖子。 この人の場合がいちばん典型的に 「日本はもう極めた、次
は世界を 」 というカンジだったと思う。

ちなみに、いままでに松田聖子ほど力(power)を持っていたアイドル・歌手は
存在しない。 力とはすなわち、イイ曲をもらい続ける、AAランクの曲を自分に提
供させ続けるけるということだ。

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  歌手というのは、要は歌う曲がイイ曲でなければ売れないからだ。 知ってる
人も多いと思うが、松田は、業界の盟主石原某の愛人であったという説がある。

 関係を終わらせるにあたって石原は、自分のところの若い衆であるKに彼女
を引き取らせたといわれている。

この説をはじめて知ったときは 「なるほど ! 」 と思った。 それならば、松田が
あれほどの力を持っていたのも頷けるからだ。

 松田は、デビュー曲の「裸足の季節」 から 「天使のウィンク」 までピッタリ20
曲、連続してAAランクの曲をもらい続けた。 これは空前絶後のコトだ。 当然そ
れらの曲はすべて1位に輝いた。そのあともAランクの曲はもらっていて1位にな
りつづけている。

 しかも今の人とは違って、彼女は当時の歌謡界のシステムに則って間隔をお
かずに曲を出し続けた。 つまり 3~4ヶ月に1曲のペースでずっと新曲を出しつ
づけた。

 歴代シングルの中には、B面の曲までがブレイクしてしまったものもある。 そ
れが名曲 「Sweet Memories」 だ。もともとこの曲は、「ガラスの林檎」 のB面に
すぎなかった。

 しかし、この曲が缶チューハイのCMで使われるようになり、バーの歌い手であ
る中年女性のアニメのペンギンが、この曲を静かに歌っているというもので、ペン
ギンがとってもイイ味をだしていた。 この時期、チャートではこの2曲が上位を独
占した。

 結局、彼女は約5年間も全力疾走をつづけ、そして、その5年間にわたるチャ
ートの中で松田聖子が上位にいない週はほとんど存在しなかったなかったとい
うコトだ。 これはスゴすぎる。

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 さて、話を戻そう。 いままでに何人かが欧米でのヒットを目指したという話。

 松田のあとは近年における宇多田ヒカルだ。 松田と宇多田はきっと、前もっ
て綿密なプランを練って満を持して参入したと思われる。

だけど見事に敗退した。 原因として、欧米で女性アーティストが売れるために
は絶対にSEXYさが必要だが、松田にはそれが欠けているとされた。

 宇多田にはそのコトがわかっていたので、歌の歌詞自体をエロい内容にする
などの工夫をしたし彼女は英語を話すこともできた。 だが、それでもダメだった。

 対称的に きゃりー はあけらかんとそれをやってのけてしまった。 彼女の場合、
エロいとかそういう問題ではない、という位置で勝負したとも言える。


  しかし、きゃりーぱみゅぱみゅ を上に挙げた人たちと同列で語るのは間違っ
ていると思う。 現在では、曲の売り方の構造そのものが変化している。 それは
YouTube という新兵器の登場である。

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 この、YouTube の世界的な普及と言うのは、じつはそんなに単純なことでは
ない。 従来のアーティストは、CDという “物” を売る必要があった。 物を売るた
めにはまず、売りたい数だけそれを製造しなければならない。

それだけではなく、物を売るためには、製造以外にも流通・保管・宣伝・展示・
販をしなければダメだ。

一方 Youtube では、物ではなくて “情報” を売ればいい。 “情報" であれば、
いちいち売りたい数だけ製造する必要はない。オリジナルを一つだけ作ればいい。
あとは欲しい人がそれを勝手にコピーして持っていってくれる。

さらに、YouTube ならば、それを売る必要さえない。 展示さえしておけば、欲
しい方が勝手に持っていってくれるからだ。 つまり、製造も流通も保管も宣伝も販
売もしなくていい。

 ただ展示さえしておけばいいというコトだ。 これならば時間も労力も、そしてコス
トもほとんどかからない。



 さて、次は少し視点を変えてきゃりーぱみゅぱみゅが踊っている 「踊り」 につ
いて考えてみよう。 現在、YouTube をとおして世界各国の若者たちが きゃりー
の踊りをまねて踊っている。

きゃりーは、あのレディー・ガガと対比されるコトもあるが、2人とも曲に併せて
踊りをおどっている。 だが、じつは2人の踊りは決定的に違っている。 というのも、
レディー・ガガは 「ダンス」 を踊っているが、一方の きゃりーは 「振り付け」 を踊
っている。


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  ダンスと振り付けはまったく別物である。 ダンスと言うのは、基礎的なレッスン
を積んでいない限り、素人がいきなりできるものではない。それはマイケル・ジャ
クソンのダンスを考えればわかる。

だが振り付けは違う。 振り付けの場合、その動きさえ覚えてしまえば小さい子
供でも踊ることができる。 YouTube では各国の若者がきゃりーの振り付けを覚
えて踊っている。

だけど レディー・ガガのダンスを素人がコピーして踊っているという動画は見
られない。

 きゃりーやAKBのように、ここまで高度に発展して、しかもカワイくて面白い振り
付けというのは、もしかすると日本独自の文化といえるのかもしれない。

 その昔ピンクレディーというガールズユニットがいた。 彼女たち2人は、数年の
あいだ一世を風靡して日本の天下をとった。

ピンクレディーほど、その振り付けを強調してインパクトを与えた歌手は先にも
後にもいない。 当時は、明星や平凡という雑誌に連続写真をもちいた振り付け
の虎の巻が掲載されて、女の子たちはみんなまねして踊っていたという。

ピンクレディーの振り付けは、もう一つの流れであるダンスの歴史の中でのマ
イケルジャクソンの存在に似ている。 ダンスでマイケルジャクソンほど世間にイン
パクトを与えた人は先にも後にもいない。

ちなみにマイケルジャクソンというのは真に革命的な存在で、彼によって音楽
というものは 「聴く」 ものから 聴くだけではなく 「観る」 ものへと変えられた。

 だから、彼以降のアーティストたちは否が応でも踊らざるをえなくなってしまった。
ある意味迷惑なはなしでもある。

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  さらに、これはどうでもいいコトだけど、ピンクレディーというのは、もう一つ、空
前絶後の部分をもっていた。 ピンクレディーほどスカートの中のパンツを魅せて
いた歌手はいない。

これは当時相当に衝撃的であった。テレビの画面を見ながら、目の前でおこっ
ているコトが信じられいほどであった。 一体これをどう受け止めればいいのか?
ただ素直に興奮すればそれでいいのか?

・・・・・ それほどまでにモロ見えであった。 しかも、当時の女性の太ももという
のはそれはもう肉感的で野放図で、現在の女性の小じんまりしたチャチなそれと
は破壊力が違う。 それゆえ、ピンクレディーというのはかなり直接的な名前である。

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 左の写真はピンクレディではなくて河合奈保子だけど、“肉体の野放図さ” が
よく表れていると思うので参考までに。 現在の、たとえば前田敦子の子供だまし
のようなカラダとは深遠さがちがう。

 ピンクレディのデビュー曲は 「ペッパー警部」 というのだが、いま思うとこれは
とんでもない歌だ。 よかったらネットで詞の内容を確認してみてほしい。


 話が少しそれるけど、日本では、マイケルジャクソンやマドンナ、レディー・ガガ
ような 「真のスター」 は絶対に現れないと思われる。

人は、自分とは異質な存在にしかスター性を感じないからだ。 日本人は基本
的にはみんなおんなじ、同質だ。 だから多くを言わないでも分かり合うことがで
きる。

おそらくキムタクの過去のクラスメートは、それ以外の人たちほどはキムタクに
対してスター性を感じていないだろう。

 カリスマの元祖・イエスでさえ、地元のナザレに帰って説教をした際には、「大工
の息子が何を偉そうなこと言ってんだ」 と、指をさして笑われたらしい。 

 沖縄出身のアーティストが持てはやされるのも同じ事情からだ。 沖縄の人たち
からは自分とは異質な部分を少しだけ感じ取れるからだ。

 プロデューサーたちは昔からこのことにに気がついていて、昔から沖縄というカ
ードは切られた。 フィンガー5、南沙織。

 上でも述べたように、外国の人から見ると きゃりーは異国性が強いのだと思わ
れる。


 それでは元に戻って、 踊りの次は「曲」 について話。 きゃりーぱみゅぱみゅの
人気を支えているのは 10 のウチ 4~9 くらいまでは歌っているのがイイ曲だか
らだと思う。



デビューから現在まで、きゃりーは連続して5曲ものAAランクの曲を提供され
ている。 「つけまつける」 から 「PONPONPON」 (つけま・Can・ファッション・ふ
りそで・PON) までの5曲。

これは、近年まれに見ることだと思う。 たとえば、あのPUFFYでさえAAランク
の曲は2曲~3曲しかもらえていない。 異論はあると思うけど。今をときめくAKB
でさえもここまでではない。






じつは、僕がいちばん きゃりーぱみゅぱみゅ は 「すごいなぁ~」 と思うのはこ
の点だ。 松田聖子のところでも言ったが、イイ曲を提供され続けるというのは、
それだけ力 (Power) があるからである。

 もちろん偶然に左右されるという部分もあるけれど、それだけではないと思う。


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 だから逆に心配もしていた。 この状態がこのままずっと続いていくワケがない。
きゃりーぱみゅぱみゅにも AAランクの曲をもらえなくなる日が必ずやってくる。
そして、それはある意味突然やってくる。

いい曲を歌い続けていたのに、その次の曲が 「なんだこりゃ! ウソだろ?」
ということがよく起こるのだ。 それが早くも2曲目できてしまった人のことを、世間
では 「一発屋」 という。

 ちなみに、かの宇多田ヒカル先生というのは、結局は 「偉大なる一発屋」 だっ
たような気がしてならない。

 おそらく、宇多田先生はファーストアルバムの時点が全盛期だったんだと思う。
デビュー直後が全盛期というのはスポーツ選手にもときどき見られるコトだ。

 デビュー曲が最高傑作であって、以降はそれを超えるどころか匹敵するような
作品も生み出すことができない。 当然ながら宇多田本人がそのことをいちばん
よくわかっていて、以降はずっと苦しみ続けていたような気がする。

 だから何だか見ていてツライものがあった。

 なまじデビュー曲があそこまで売れてしまったばっかりに、本人の気持ちとは
関係なく、気がつけば自分が偉大な存在になってしまった。 しかも、売れて以降
の彼女は周囲からすれば “カネを生み出す装置”、“歩く利権” のようなモノだ。

 よって、絶えず周りから強烈に干渉されつづけ、放っておいてもらえない。 だ
けど、それに100%応えるには少し才能が足りない ・・・・・・ 

 「なんで売れちゃったんだろう? 売れなきゃよかった」 1度くらいはそう思った
ことがあるのでは?

 もしかしたら突然やめてしまうのでは? と思っていたら、ホントにそうなってし
まった。

 使い切れないくらいのマネーもゲットしたことだし、これからはのんびりと楽しく
生きていってほしいなぁ。
  
 しかし、彼女が偉大な存在であることに変わりはありません。


 ・・・・・・ さてさて話を戻しましょう。 ここでは、いちおう歌手とアーティストは分
けて考えよう。

 歌手というのは人から楽曲を提供してもらって歌う人で、アーティストというの
は自分で作って歌う人。 昔風に言えばシンガーソングライター。 アナウンサー
とキャスターの区別もこれと似ている。

 歌手が、前曲と比べると明らかに数段落ちの曲を次の曲として渡され、以降
はそれがずっと続くというこの時点を、仮に「臨界点」 と呼ぶことにする。 その
界点を迎えたとき、そのことは当然本人もわかるはずだ。

 わかっていても、それはおくびにも出さずにその曲を大切に歌わなければな
らない。 ツライところだ。

 歌手の場合、この臨界点は必ずやってくる。 カッコつけて言えば、それが 「シ
ョービジネスの掟」 だということなんだろう。

 新しい才能、新人が次から次にデビューしてくる。 そして、どんな業界でも同
じだが、お客さんに対しては、いつも新鮮な商品を提供していく必要がある。

 いつまでも同じ歌手ばかりを売りつづけるワケにはいかないのだ。 あの松田
聖子にだって、20数曲目でその臨界点が訪れたワケだから。

 切ないのは、自分にも臨界点が来てしまったというのを当の本人もわかって
いるというのが、画面を通してコッチにも伝わってきてしまうときだ。 本人にとっ
てはわかっているけどどうにもならないという状態。

 具体例としていちばん印象に残っているのが、篠原涼子がデビュー2曲目を
番組で初披露したときだ。1曲目は、だれが聴いてもすばらしい歌だった。 一度
聴いたら忘れられないほどの名曲。 「いとしさと せつなさと 心強さと」。

 しかし初披露したその2曲目は、誰が聴いても ・・・・・  その曲もビックネーム
に提供してもらった曲ではあったのだが。

 現在、世間的・ネット的・マスコミ的には、新曲 「インベーダーインベーダー」
は世界的に大注目 ! 絶好調 ! パーペキ ! 大満足の仕上がり ! ! ということ
になっているようだ。

 なので、以下の意見を述べるのには少し勇気がいるのですが、それでもめげ
ずに言ってやるゾ!

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 結論から言うと、きゃりーぱみゅぱみゅにも とうとう臨界点がやってきてしまっ
ているような気がしてならない。

 非常に偉そうな言い方になって申し訳ないのだけれど、最初の5曲がAAなら
ば、6曲目と7曲目は よくてBランクというところなんじゃないかな? しかもこれ
で2曲続けてというコトになる。 もちろん異論もあると思うけど ・・・・・




 今回の曲について。 インベーダーはイイとしても (あんまりよくはないけど)、
世界征服っていうフレーズは、なんていうか80年代後半のB級アイドルみたい
なカンジというか、

 いかにもその頃のB級アイドルが自分のプロフィールの 「将来の夢」 のとこ
ろに書きそうなコトというか。

 それとも、ぐるりと一回転して今の人には逆に新鮮に聞こえたりするのか?

 イケイケの時代の当時は、世界征服というフレーズはたしかに時代に合って
いた。 世界征服というコトバを聞いても 「ハハハ、たしかに ! 」 と笑うことがで
きた。

 たけど、今の時代においては全然そうではないだろう。




 曲については好みというのがあるので、曲のレベルがどうのこうのとあんま
りエラそうなことは言えないけど、こう考えると少しわかりやすいかもしれない。

 たとえばデビュー曲を選ぶ場合、最初の5曲だったらどれでもデビュー曲と
して通用するレベルの曲だと思うけど、にんじゃりとインベーダーはデビュー
曲としてはちょっとツライと思う。

 僕は きゃりーぱみゅぱみゅ は好きだし、キャラとしても最高だと思う。 だか
らなんとか今後もガンバッテほしいし、次の8曲目には再びAAの曲をゲットし
てほしい ! !

 そして将来的にはこの文章も 「なに言ってんの?ぜんぜん的ハズレじゃん。
今だってこんなにイイ曲歌ってるし ! ! 」 というふうになればいいと思いまーす。



【 以下、2013年8月15日 加筆 】

 さてさて、ここからは曲という要素からはなれて、きゃりーについてそのほか
の面から論じてみよう。

 じつは、きゃりーぱみゅぱみゅは悲しい現実を背負っている。

 それは、きゃりーがきゃりーでいられるのはせいぜいあと3年がいいところだ
ということ。

 すこし上のところでこれからもガンバッテほしいと言ったばかりだが、それは
比較的短期的な話であって、ここから先はもっと長期的な話。


  きゃりーでいることができなくなるというのは、人気が衰えるとかそういう意味
ではなくて、つまりは25歳にもなって今のキャラをつづけるわけにはいかない
ということだ。

 きゃりーがきゃりーの個性を出せば出すほど、それと反比例してその命は短く
なっていく。

 そう言う意味では、きゃりーぱみゅぱみゅ という存在はもともと期間限定商品
なのだ。

 最初から長く生きることはできないとわかっている切ない存在。 短い間だけ
輝くことができる存在。

 裏方の人間はそのことを充分にわかっているだろう。 それどころか、最初か
ら きゃりーは期間限定商品だということを考慮にいれて全てのことを決定して
いるのかもしれない。

 それを思えば、現在の世界的なブレイクというのはもともと予定に入っていた
のかどうか気になるところだ。

 彼女が終わりを迎えるとき、それはどういうカタチをとるのだろう?

 きゃりーぱみゅぱみゅ という存在自体完全に消えてなくなるのだろうか?

 それとも、徐々にシフトチェンジを図ることでさりげなくキャラを変えて生き残っ
ていくのだろうか? それは相当ムズカシイと思うけれど。

 そういう部分では、かつての篠原ともえに似ている。

 篠原ともえは数ヶ月前、昔と比べての激変ぶりが話題となって、美人だしメチ
ャ可愛いと好評だった。

 じっさい服装もメイクも大幅に変わって、すっかり “きれいなお姉さん” になっ
てしまった。

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 きゃりーの場合、そもそもその名前からしていずれ変えないとマズイだろう。
本名の竹内桐子にするのかな?

 それに、現在主張しているいわゆる “青文字系” 原宿ファッションについても
いくらかシフトしないとならないだろう。 その場合は 「グロカワイイ」 も卒業とい
うことになる。

 ・・・・・・ ここで 「グロカワイイ」 についていくつか。

 芸能界には 『枠(ワク)』 という考え方がある。 枠というのはつまり、いつの時
代にも世間がつねにその要素を求めていて、つねに需要があるキャラクターと
いうもの。

 デブタレ枠、おもしろ外人枠、心霊枠、お色気枠、筋肉枠、雑学枠 などなど、
ほかにもイロイロあるだろう。 

 「グロカワ枠」 というのもそのうちの1つで、“完全に100%グロテスクというの
ではなくて、グロテスクなんだけどなんかカワイイ、なんか許せる” みたいなキャ
ラクターのこと。

 古くは “えりまきトカゲ” ずーっと飛んで 鈴木その子、マツケンサンバ、アンガ
ールズ あたりがその系譜に属すると思う。アンガールズの場合「キモかわいい」
という言われ方をされるが、要は同じこと。

 今をときめくマツコデラックスにも若干その要素があるかもしれない。

 そしてさらに現在では、カツオ人間やフナ犬など各自治体の 「ゆるキャラ」 た
ちに受け継がれている。

 また、『枠』 というくくりをはずしても、正統派(正・陽・ポジ)の中に正反対であ
るグロという負の要素が入り込んでいることは昔から多々見られることだ。

 黄金バット、デビルマン、がきデカ、もっと古くは丹下作善。 ちょっとズレるか
もしれないけどゲゲゲの鬼太郎。 海外でいうとハンプティ・ダンプティ 。


 たとえば、砂糖の中に塩という正反対のものを少し混ぜることで甘さがさらに
引き立つのと同じように、いま挙げたキャラたちが仮に正義の味方だとすると、
正義の中にグロの要素を少し混ぜることで、正義性がより強調されるのだろう。

 そしてきゃりーの場合は、グロを少し取り入れることで、よりカワイさが引き立
つという効果があるのだと思う。

 そもそもグロテスクというのは心霊写真なんかと同じで、怖いもの見たさという
か、人間が本能的に求めているというところがあるので、グロの要素を取り入れ
ることで、人々の本能の部分に訴えることができるという効果があるのだと思う。


 きゃりーぱみゅぱみゅにはグロカワ以外に、というよりもグロカワ以前に、もう
1つ特徴がある。

 きゃりーというキャラは、非常に記号的な存在であるということだ。

 記号的というのは、ある存在が、それ自身以外と同時にほかのモノゴトをイメ
ージさせるという性質のこと。

 きゃりーはカワイイであるとか原宿であるとか、自分以外のモノゴトを同時に
イメージさせる存在だ。

 これに対して、例えば誰でもいいが、ガッキーや芦田愛菜ちゃんや松田聖子
らが自分以外のモノゴトを同時にイメージさせるということはほとんどないと思う。

 ということはつまり、海外のファンたちがきゃりーを見る場合、彼女自身だけで
はなくて 同時に原宿であるとか “カワイイ” に象徴される日本のグッズやキティ
ちゃんなどほかのキャラクターまでも重ねて見ているのかもしれない。

 そうなると海外でのきゃりーの人気は、“彼女自身プラスさまざまな日本文化”
という全体に対する人気だということになる。 そうだとすると、きゃりーは 「原宿
のご当地ゆるキャラ」 のような存在だということになってしまう。

 どちらにせよ、やはり きゃりーは人物ではなくてキャラクターなのだ。

 じつはそのことがきゃりーの曲の動画にも表れている。 これらの動画の中で
はどの曲においてもきゃりーのワキで何人ものダンサーが踊っている。

 しかし、それらダンサーのなかには人物は1人もいない。 つまり1人残らず全
員が着ぐるみやお面などで顔をかくしている。 ファッションモンスターのフランケ
ンと和尚だけは顔を見せているが、この2人は人間とはいえない。

 ダンサーが顔をかくすのは徹底していて、Candy Candy では小学生とみられ
る子供にまで顔をかくさせている。 しかもこれらの子供たちの顔には1~4まで
の数字が大きく記されている。

 数字が記されているというのは、顔を “かくす” というよりも、もっと積極的にそ
の匿名性を強調しているというか、人物性を否定しているということだ。 仮面舞
踏会の際の仮面と同じ役割。

 ちなみに仮面舞踏会の仮面というのは 「今日の私は、私であって私ではあり
ません(だから今日はなんでもしちゃいます)」 という意味がある。

 子供の顔を大きな数字でかくすなんていうことは、普通はあまりしないと思う。

 お面をつけているダンサーが多いが、お面というのはスゴク象徴的で、つまり
はペルソナのことだ。(※)

 まわりのダンサーがみんな人物性や個性をかくすといいうのは、それだけきゃ
りーのキャラを強調したいからなのか、それともきゃりーの人物性を強烈に否定
したいからなのか、はたまたその両方なのか、あるいは僕が言っていることがま
るっきり間違っているからなのか、そりゃわからんけど、とにかく極端に顔をかく
していると思います。


 ・・・・・・ 以上のように、いずれは名前もファッションもコンセプトもみんな変え
てていかなければならないとしたら、それはもはや きゃりーぱみゅぱみゅ では
なくなってしまう。

 ん ~~~  どうにかならないのかなぁ ?

 いっそのこと、歌舞伎俳優やタイガーマスクやスケバン刑事のように、きゃりー
ぱみゅぱみゅ というキャラだけ残して、それを演じる女の子を数年ごとに入れ替
えるようにするとか。

 そうすると、2代目きゃりーぱみゅぱみゅは春風ちゃんで、3代目は芦田愛菜
ちゃんというところか? それぞれ18歳から22歳までの間だけきゃりーをやって
もらおう。


(※) ペルソナ : 自己、人物性。 もともとは “お面” という意味。

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