SSブログ

もっともわかりやすい西洋哲学史 ⑧. 近代への序曲 [哲学・思想]

スポンサーリンク




  前回は、デカルトが自らの哲学を構築するに当たって4つの
規則を設けたというところまでお話しました。

  そのつづきです。

  デカルトは、自分自身を物質とは無関係である “純粋な精神”
とみなし、「われ思うゆえにわれあり (コギト・エルゴ・スム)」 とい
う第一原理をうち立てました。

それは、他方において、私たちを取り巻く外界・自然がなんら
意味をもたない、空間座標に象徴されるような、どこであっても
均質で無機質なものとみなされることを意味してもいます(= 機
械論的世界観)。 

  コギトとは 「私は考える」 というラテン語に由来しますが、こうし
て、精神として純化された人間 (コギト)は、もう一方で、物質とし
て純化された自然と向かい合う存在となりました。

  コギトはさらに 「近代的な自我」 へとつながっていき、精神と自
然の向かい合う関係は近代的な 「主体-客体」 の図式につなが
っていきます。


 2_shutterstock_69544540.jpg


  デカルトによれば、「我われが明晰判明に理解するモノゴトはすべ
て真である」 といいます。

しかし、デカルトはなぜ “自分がモノを考えている” という認識そ
のものがまやかしであるかもしれない、と疑わなかったのでしょうか?

  あるいは、「なぜ 『自分(主観)が自分の考え(客観)を正しく認識
しうる (a )』 と判断したのでしょうか?」 (b )

  この問い(b)に対して、デカルトは答えてくれません。 あるいは
(b )という問いを立てなかったともいえます。

  デカルトにとって (a )は自明のコトであり、人間の精神にはもとも
と (a ) という能力がそなわっているとされます。 そして、ここにデカ
ルトの人間の理性に対する絶対的な信頼があります(=合理主義)。


 london-underground-web.jpg


  次に、精神は客体を正しく認識しうる能力をもっていますが、そ
れは個人的なものではなく、「万人がモノゴトを同じように考えるこ
とができ」 ます。

  デカルトは、万人に備わるこの能力を 「良識」 と呼び、また同じ
ものを 「自然の光」 と呼ぶ場合もあります。 これは世間的な常識
のコトではなく、“モノゴトを正しく認識できる能力”を指しています。

(※) ここでいう 「良識」 とは 「理性」 と置きかえてもよく、それなら
ば始めから 「理性」 と言えばいいのですが、哲学者はこういう造語
好きなのです。

 万人に等しく 「良識」 が備わっているということは、“人間はみな
同型である” という発想につながり、これがやがて啓蒙へとつなが
っていきます。

  ここまで来れば 「平等」 という発想まであと1歩なのですが、この
1歩がなかなか埋まらないのが近代の歴史なのです。


  さて、ここにきてデカルトは 「神」 を持ち出します。

  デカルトの理性に対する絶対的な信頼は、それが神に由来する
ものであることによっています。


無題.png


  デカルトによる、いわゆる 「神の存在証明」 を簡単に説明すると
次のようになります。

  私たちは 「完全なるもの」 を想起することができる ⇒ 「完全な
るもの」 を想起することができるということは、「完全なるもの」 の
存在を前提としている ⇒ 「完全なるもの」 とは神以外にありえな
い ⇒ よって神は存在する ⇒ めでたしめでたし

この考え方は、プラトンのイデア論にそっくりですが、それはさ
ておき、ここで注目すべきは、スコラ哲学を批判したデカルトでさえ
神を持ち出してしまった、ということではなく、「神の完全性=人間
の理性の完全性」 であるということです。 

  いつの間にやら、神の絶対性が人間の絶対性にすりかわって
しまいました。

  これはつまり、「人間が神の玉座についた」 と解釈できますが、
早くも17世紀初頭のこの時点で、このような発想が誕生していた
ということです。

  そして、神の力を受け継いだのが近代科学だといえ、この後の
数世紀でそれが証明されていくことになります。


 o0700046610872965942.jpg


 ・・・・・・ うまく話がまとまりましたが、これは近代の神話であると
もいえるでしょう。

  古代の人たちは、私たちが西洋哲学史を信じているのと同じよ
うな感覚でゼウスやらポセイドンやらを理解していたのだと思います。

  とはいえ、哲学史はこの先まだまだつづいていきます。


《 デカルト的心身問題 》

  このあたりの話は簡単に触れるにとどめます。

・ デカルトによれば、身体による判断=「感覚」、思惟による判断
=「悟性」 であるとされます。

  人間がまちがった認識をしてしまうのは感覚に頼るからであって、
モノゴトの判断は悟性によらなければならない。


・ デカルトは、人間を物質とは関係ない純粋な精神であるとみな
しましたが、これはその反面、身体が純粋なモノであるとみなされ
たことにもなります。

  その結果、精神と身体は明確に区別され、それぞれに異なった
原理にもとづくものとなりました。

  そうすると、当然この2つはどのように関係しあっているのか、
という問いが生まれ、デカルトはそれを細かく説明していきます。

  しかし、その理論は自らの造語を自らの造語によって説明してい
く理論なので省略します。

・ デカルトの世界観が 「機械論的世界観」 呼ばれるのは有名
ですが、この世界観はデカルト哲学全体を指すのではなく、精神
と物質に分けたうちの物質(自然・外界) の側を説明するものです。


 o0800054310872986391.jpg


  デカルトについては以上です。

  この先、哲学史は二股に分かれ並行して進みます。 それはそ
れぞれ 「大陸合理論」 と 「イギリス経験論」 と呼ばれますが、前
者がデカルトを受け継ぐ路線となります。

 そして、この両者をカントが統一することになります。


  今回はここまでです。





スポンサーリンク<br />


nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。