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ロマ族の集落で青い目の白人少女が保護されたニュース & ロマ族の歴史的解説です  [ニュース]

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2013年10月20日、ギリシアのロマ族集落で身元不明の白人少女が
保護され、当局は世界中に情報を呼びかけています。 プラス、ロマ族
(ジプシー)のことがよくわかる歴史的解説です。

  CNNによると、 ギリシャ警察は20日までに、中部ラリッサ近郊にあ
る少数民族ロマ族の集落で身元の分からない白人の少女(4)を保護し
たと明らかにした。 誘拐事件や人身売買に巻き込まれた可能性もある
として情報提供を呼び掛けている。

警察が武器や薬物の操作で集落を訪れたところ、集落内あるの民家
で捜索先の民家で金髪に白い肌、青い目の少女を発見。 両親を名乗
る男女と外見がまったく違うことから、この2人に事情を聴いた。


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男女の供述が二転三転したためDNA検査を実施したところ、 血のつ
ながりはないことが判明したという。 警察が発見した文書の中には、 ア
テネ当局が2009年に発行した出生証明書が含まれていた。

 自称母親は「10ヶ月で6人の子供を産んだ」 「子供は14人」 などと主
張していたが、子供は14人中4人しか子供が見つからなかったという。


  ギリシャ警察が今回少数民族ロマ族の集落で発見した白人の4歳に
なる少女の身元について、情報提供の呼び掛けをしたところ、世界中か
ら8000件の電話が寄せられているという。

現在少女を保護している児童支援団体 「スマイル・フォー・ザ・チャイ
ルド」 の報道担当者によると、このうち8件の情報は警察の捜査に活用
されている。米国からも4件の電話があった。

この団体はギリシャ当局や国際刑事警察機構(インターポール、ICPO)、
欧州刑事警察機構(ユーロポール)と協力して、少女の家族を探している。

  少女は同団体の施設に保護され、落ち着いた様子をみせているという。

  少女はロマ族集落内の家で、両親を名乗る男女に 「マリア」 と呼ばれ
ていた。 この男女にはほかに計14人の子どもがいるとされるが、出生証
明書の偽造が判明していることから、警察がさらに調べを進めている。


【 ロマ族とは 】

ロマ単数はロム)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうち、主に北インド
のロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。 移動生活者、
放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。

ジプシーという呼称は差別的要素が含まれるとされ、近年ではロマと言い
換えられる傾向にあるが、、ジプシーにはロマ以外の民族も含まれている。

ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプ
は18世紀後半に作られたものであり、ロマでない集団との関係は不明で
ある。


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  世界各地で流浪の民族史を重ねてきた経緯から、彼らはそれぞれの国
でさまざまな名前で呼ばれてきた。

大きく分けて2つの系統があり、ひとつは「ヒターノ」 「ジプシー」 など 「エ
ジプト人」 に由来する呼称。

  もうひとつは「ツィンガニ」 「ツィガーニ」 などの系統の言葉であり、ドイツ
のカスパー・ポイサーによりビザンチン時代のギリシア語から 「不可触民、
アンタッチャブル」 へと遡れる言葉であるとされた。

  ロマの祖であるロマニ系の人々は複数の経路で度々インド方面からヨー
ロッパへ移動してきたと考えられる。 14世紀から19世紀に現代のルーマ
ニアに当たる地域で奴隷とされた集団がルーマニア語の影響を受けたヴラ
ハ系方言を話し言語学的にロマに近いと考えられている。

ロマと同根のロマニ系の集団としてはヨーロッパでは中欧のドイツ語圏
を中心にシンティ、イギリスにロマニチャル、仏語圏にマヌーシュ、北欧や
イベリアなどのカーレなどが知られている。 この他、中近東や中央アジア
分布している。


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  ロマの人種的分類については現在でも定説が存在しないため、厳密に
どの人種に分類できるかは、いまだに判明されていない。

歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスタ
ーン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着
いたとされる。

旅に出た理由は定かではないが、西方に理想郷を求めたなどの説があ
る。 15世紀になると、ヨーロッパ各地においてロマの名が史料に登場する
ようになるが、 彼らは周辺民族と交わらず、独自の文化を守り閉鎖的に生
活していた。

  そのため問題視され、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受
けていたことがわかる。 ただしユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。


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彼らは、かつてはヒンドゥー教徒だったと考えられているが、定住した土地
での主流の宗教に改宗していることが多い。

  すなわち、東ヨーロッパでは正教またはイスラム教、西ヨーロッパではカト
リックかプロテスタントである。 独特の神秘主義的な風習はあるが、それは
宗教とは別と考えられている。


  その後、18世紀オーストリアでは、ロマに対して近代的・人道的政策が
施されたこともある。

  定住化が推奨され、周囲に比べ文化的に非常に遅れていてため、ロマの
子はロマではない家庭で育てられ、ロマ同士の結婚は禁止されるに至った。

  しかし、こういった押し付け的な啓蒙政策は、結局ロマの反発を招き失敗
した。


《 20世紀 》

20世紀になると、ドイツにおいては、ナチス党が自由選挙で国民の支持
を受けて政権を獲得した後の1935年に、ロマを 「劣等民族」 と見なす法律
が施行された。

ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学
の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。

その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマに
は優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。

当時のドイツ政府は、ロマがアーリア系であることは知っていた。 「アーリ
ア主義」 を掲げるナチス党政権がロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と
相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族
の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」 と考え
たためである。

第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ドイツは再び多数の
ロマを抱えこむことになった。当時のドイツ政府が 「最終解決策」 と呼んだ政
策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。

これはポライモスと呼ばれている。 正確な数は不明であるが、戦争中に
約50万人のロマが殺害されたとされる。 強制収容所への移送を待たずに
現地で殺害されたものも多かった。

  ナチス親衛隊特別行動部隊 「アインザッツグルッペン」 が東欧の占領地
域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害
された。

  ドイツ政府による被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人
より不利な扱いを受けている。


《 戦後のロマ 》

第二次世界大戦までの多くのヨーロッパ諸国では、ロマは固定した店舗で
開業することは禁止されていた。 このため、伝統的に鍛冶屋、金属加工、工
芸品、旅芸人、占い師、薬草販売等に従事していた。

現在も基本的に移動生活を続けているロマは多く、移動手段として自動車
を用い、これに伴って職業も以前の馬の売買から、自動車の解体・中古車の
あっせんなどに変化してきている。

第二次世界大戦前から1945年までのドイツ政府による迫害によって、ロ
マの人口は減少した。 社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働
者化を進めるために移動禁止令が制定された。

  これらはロマに定住を求める同化政策であり、その後議員となったロマも
存在した。 

西欧諸国ではロマへの同化政策は採用されなかったが、国内のロマを少
数民族とみとめて権利を与えることはなかった。 例外的に社会主義国のユ
ーゴスラヴィアとハンガリーが、ロマを国内少数民族と認定した。

  スイスでは、1926年から72年まで政府の支援を受けた民間団体 「青少
年のために」 が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容
したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした。

ドイツでは95年に、ドイツ国籍をもつロマを国内少数民族と認定している。
戦後の経済変動のなかでロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮
は一段と進んでいる。 伝統的な生活を放棄する者も多い。

90年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも
少なくなかった。 99年のコソボ紛争では、彼らはセルビア人、アルバニア人の
双方から迫害を受け居住地追われた。 現在でも彼らの居住地の帰還は実現
していない。


《 ルーマニア 》

ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居
などありとあらゆる方面にて行われている

  21世紀に入った現在、ルーマニアでのロマ問題は拡大の一途をたどってい
る。 EU諸国からのロマの強制送還により、ロマ人口が増加しているのである。

  ルーマニアにおいて、ロマは自己申告に基づく国勢調査では50万人だが、
出自を隠している人も含めると150万人に達すると言われる。 ルーマニアの
身分証明書には民族記入欄が無いため、ロマであることを隠し社会に同化す
る人も少なくない。

2002年の調査では、ロマの進学率が極度に低いことが明らかになっており、
高卒以上は全体の46.8%に対し、ロマは6.3%、全く教育を受けていない無
就学者の割合は、ロマだけで34.3%にも上るのに対し、少数民族を含むルー
マニア全体では5.6%にとどまっている。

これらの問題に対してルーマニア政府は、「国内にロマはいないため、ロマに
対する差別問題は存在しない」 としてロマの存在自体を否定している。

つまり、ルーマニア国内にロマが存在しない以上、ロマに対しての差別は存
在しえず、ロマ差別はあくまでもルーマニアでは架空の存在でしかない、という
のが政府の見解となっている。

このため、国内におけるロマ問題への対策をルーマニア政府は何一つ行って
いない。 さらに、国内外からのロマ対策を要求する声に対しても何の反応も示し
ていない。

この結果、ルーマニアでのロマ問題は解決のめどは立っておらず、逆にロマ
差別自体がルーマニア人ならびに国家ルーマニアとしてのアイデンティティにな
っていることは否定できなくなっている。

  スペインでは、マドリードの郊外ロスフォスコスがロマの集住地域となっており、
38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいるが、このロスフォスコスは
麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されている。

このバラックは、別の地区への移転が計画されたこともあるが、移転先から
の猛反対で計画は頓挫した。

政府の発表によると、麻薬密売の70パーセントはロマによるものである。 ス
ペイン国民の26パーセントがロマに悪感情を持っているとの統計もある。

1991年にはアンダルシア地方のマンチャレアルでロマによる殺人事件をきっ
かけにロマ追放運動が発生した。

暴徒化したデモ隊がロマの家7軒を襲撃し、家財道具を通りに投げ出して家を
破壊する事件が起きた。 このとき、マンチャレアルで\は「自分の子をロマの子と
一緒に勉強させない運動」 「ロマの子を登校させない運動」 が起きている


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《 ロマの文化 》

タロット(タロー)と呼ばれるカードを使った占いについて、ロマがその起源だと
の説がある。


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  また、フラメンコの原型とも言われる、独自の音楽、踊り。 昔から旅芸人として
重宝され、ブルガリアやセルビアなどでは、出生・洗礼・誕生日・聖名祝日・結婚
式などに際して、ロマを呼び演奏させる習慣がある。


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ボスニア・ヘルツェゴビナなど、一部のロマ人社会では一夫多妻制の風習が残
っていることがある。 全ての財産は共用物であるという考えが根強く、財産の個人
所有という考えが乏しい者が多い、とされる。




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