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S.スピルバーグ と ジョージ・ルーカス  ~ 映画とプロレスの不思議な一致 ~ [映画]

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スピルバーグによって映画の傾向が大きく変化した1980年頃、なぜか
プロレスにも同じ変化が起こった。 ルーカスのスターウォーズ監督として
のギャラがたった5000円だったという事実。 両者のプロフィールを詳しく。

今となってはすっかり下火になってしまったプロレスですが、あまちゃん
で描かれた80年代において、プロレスは間違いなく輝いていました。

  それは例えば、当時のアントニオ猪木が高額納税者番付スポーツ部門
においてトップにランキングされた年もあったという事実からもわかります。

 あまちゃんの中でも何回もプロレスネタのセリフがありました。

  しかし、この話はそれよりももう少し前、プロレスの世界規模での黄金
期である1950~60年代のアメリカにおける話です。

(※) ちなみにこの文章は、『「あまちゃん」と「半沢直樹」』 という別の記
事の中の挿入文章であったものをUPしたモノです。 元記事はこちら
http://blog.so-net.ne.jp/_pages/user/auth/article/index?blog_name=perfect-news&id=65968109

  50年代のアメリカは、テレビが本格的に普及し始めた時代です。 じつ
は黎明期においてテレビ局をいちばん支えていたソフトがプロレスでした。

  当時、いまだ技術も未熟で番組作りのノウハウも少ないという中で、プ
ロレス中継であれば、会場に入りカメラを回すだけで、あとはリング上の
選手たちが試合を見せてくれる。

  プロレスは、テレビ放送の開始以前から大人気の興行であって、放送
すれば確実に数字も取れました。 なので当時は、週に6本ものプロレス
中継番組が放送されていました。

  ちなみに、プロレスはテレビ放送が普及したはるか前、19世紀の後半
にはすでに興行として人気を得ていました。

1902年には、アメリカで世界中の注目を集めた伝説の試合が3万人
の観客を集めて巨大スタジアムで行われています。

 闘ったのは、レスリング全米チャンピオンのフランク・ゴッチと、同じく欧
州チャンピオン、ロシアのライオンと呼ばれたジョージ・ハッケンシュミット。


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  この試合は1時間20分にわたる激闘の末、フランク・ゴッチが勝利して
います。

  2年後に再戦が行われましたが、このときもフランク・ゴッチが返り討ち
にしています。


さて、プロレスはテレビの登場によって影響を受け、大きな変化を遂げま
す。 テレビ放送がなかった頃のチャンピオンは、ただ強ければそれでよか
ったのですが、試合が放送される時代になると、そうはいかなくなりました。

  ただ強いだけでは、スグに視聴者に飽きられてしまいます。 よってこの
時代のチャンピオンには、強さだけではなく、観て面白い試合ができる才
能が併せて求められるようになりました。

そして、この要求に応えて長くチャンピオンとして君臨し、プロレスの黄金
時代支えたのが、鉄人ルー・テーズです。


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  まず、テーズは、強さにおいても、じっさい世界一レベルの実力を持っ
ていました。 それに加えてテーズは、観て面白い試合ができたワケです。
彼の必殺技 「バックドロップ」 は視覚的にとても美しいワザです。

テーズのレベルでこの両者を兼ね備えているレスラーは少なく、結果とし
てテーズは、とても長期間にわたって王座に君臨し続けることになりました。

  一般的にこの頃のプロレスの試合の組み立ては、序盤から中盤に至る
まではグラウンドが中心で、試合の大半は相手のスタミナを奪うことやどこ
か1ヶ所を集中的に攻めることなどに終始し、試合後半まではハデな攻防
は見られませんでした。

  後半になると徐々に動きが大きくなってフィニッシュに向けて盛り上げて
いきます。 そして最後に「必殺技」がでて、それ1発で試合が決まります。
ウルトラマンのスペシウム光線みたいなモノです。

  しかし、ルー・テーズをはじめとするこのような試合スタイルは、やがて
飽きられてしまいます。

  1969年、ドリーファンク・ジュニアという若いレスラーが王座につき、試
合の組み立てに革命をおこしました。


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ドリーは試合の序盤から積極的にいろんな動きをみせます。 しかも、そ
の動きはとても繊細で、芸術的でした。

  そして、ドリーは1つの試合で大技をいくつも放ちました。 試合が必殺技
1発では決まらなくなったのです。 スペシウム光線を放っても、怪獣が再び
立ち上がってきたのです。

  全体的に、試合が華やかになりました。

  一方、ちょうど同じ頃、映画においてもこれとまさに同じような革命がお
こります。

  大雑把な言い方になりますが、70年代頃までの映画というのは、物語
の序盤から中盤にかけては、じっくりと内容を物語る時間帯で、大きな動
きはありませんでした。

 そして、中盤以降だんだんと盛り上がっていって終盤でクライマックスが
訪れる、という感じ。

  典型的なのが1976年の 「キングコング」 です。 僕はこの映画がとて
も好きなのですが、映画が始まってからキングコングにお目にかかれるま
で1時間くらい待たされます。 ツライです。 (ちなみに86年の 「キングコン
グ 2」 は、オープニングからキングコングが登場します)


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  このような傾向を、70年代半ばに現れたある監督が変えていきます。

  その人こそが S・スピルバーグです。

スピルバーグが劇場用映画2作目として75年に制作した 「ジョーズ」
は、「ゴッドファーザー」 の記録を破り、歴代興行収入1位を記録する大ヒ
ットとなり一気にブレイクします。


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次の作品が77年の「未知との遭遇」。 79年の「1941」。 そして81年
の 「レイダース 失われた聖柩」 (インディージョーンズシリーズ第1作) と
続いていきます。


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  「未知との遭遇」 「1941」 の頃にはすでにスピルバーグの作品は「別
格」 というイメージができていたと思います。 「別格」 というのは、なんとい
うか、従来の映画よりも娯楽性がつよいというか、「感性が若い」 というか、
とにかくほかの作品よりも単純に面白さがきわだっているという感じ。

  スピルバーグ以前の映画というのは、難しげな、高尚な映画の方が価
値が高いという共通の認識があったと思います。

  なので例えば「スターウォーズ」 (未知との遭遇と同じ79年)の公開にあ
たって、映画界のお偉方たちは冷笑していたというか 「あんあのは子供の
マンガに過ぎない」 と見ていたようです。


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 だからジョージルーカスも、公開にあたってスターウォーズにあまり自信
がなく、もともと友人であったスピルバーグに「未知との遭遇」と「スターウ
ォーズ」 の収益の権利をまるごと交換しないか? と、話していたようです。

 つまりルーカスは、スターウォーズがあれほどヒットするとは思ってなく、
ジョーズですでに超一流の仲間入りをしたスピルバーグの未知との遭遇
にははるかに及ばないだろうと思っていた。

 また、周囲も同じような見方だったので、一流の役者たちはスターウォー
ズ出演のオファーを断ったワケです。 オファーに対して苦笑いしながら 「イ
ヤー、僕はマンガはちょっと ・・・・」 という感じだったのではないでしょうか。

  驚くべきことに、スターウォーズ制作での監督としての収入は、なんと日
本円でわずか5000円。 しかもルーカスは 『スター・ウォーズ』 の公開時、
興行的な失敗による身の危険を恐れてオーストラリアに潜んでいたそうです。

  これはウソのような本当の話。 当時どれほど偏見が強かったのか、映画
界がお高く留まっていたのかがわかります。

  このような風潮に対して、スピルバーグは「単純な娯楽作品」 を発表しつ
づけました。 従来の娯楽作品には「教訓」 のようなものがテーマとして流れ
ているモノが多かったのですが(※)、そういった小難しさもまったくない、「単
純な娯楽作品」。 

(※) 例えば 「タワーリングインフェルノ」 には、“人間の科学技術に対す
る過信をいましめる” という要素がクドイほど含まれていたような気がします。


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  スピルバーグはこのような作品を世の中に問いつづけ、人々はそれを
爆発的に支持しつづけました。

  そのための手法としてスピルバーグは、映画の序盤から盛り上がりのシ
ーンを取り入れたのだと思います。 これはつまり 「お客さんを退屈させない」
ということでしょう。

  観る側にもそれが充分に伝わり、80年代にリアルタイムでスピルバーグ
の映画を観ていた人々は、「スピルバーグの映画って、(従来の映画とはち
がって)最初から面白いよね ! 」 という印象を強く抱 いていたと思います。

(※) ちなみに、81年の「レイダース」 になるとそれは顕著になり、この作
品は “最初の25分がいちばん面白かった” という、従来の映画だったあり
得ないような印象にまでなってしまいました。
(※) 従来の映画でも、007シリーズはわりと例外で、娯楽に徹し、盛り上
がりのシーンが比較的多かったと思います。

  ・・・・・・ こういう傾向は他の監督の作品にも波及していき、90年代にな
ると映画全体として、

 序盤から面白い ⇒ 1つの映画の中での盛り上がりのシーンの回数が
増える ⇒ 最初から最後まで盛り上がりのシーンばっかり ⇒ 結果として、
逆にメリハリがない、何がなんだかわからない、どの映画も同じに思える、
見終わった
あと印象に残らない。

  という、行き過ぎたところまでいってしまったと思います。 

  ただスピルバーグ本人は、やがてこういう手法からだんだんに離脱して
いったような気がします。


  さて、70年代前半に王者として長期政権を築いていたドリー・ファンク・
ジュニアが試合の組み立てについておこした革命と、74年に映画デビュ
ーしたスティーブン・スピルバーグが映画におこした革命。

  この2つの内容は、ほとんど同じようなものです。

  ナゼ、ちがうジャンルで同時並行的にまったく同じような変革がおこった
のか、その理由をくわしく分析する能力は僕にはありませんが、1つ言える
のは、人間自体がこの頃に少し変化したということなのでしょう。

  人間が少し複雑になったであるとか、より多くの刺激を求めるようになっ
てきたこと。 それに答えて与える側もより多くの刺激を提供するようになっ
たこと、それはおそらく世の中の倫理観が少し緩んだから可能になったで
あろうということ。

  それから、世の中の時間の進み方が少し早くなったというコトもあるでし
ょう。

  また、世の中が 「消費的」 になってきたこと、つまり、1つの作品をずっ
と長く味わい続けるよりも、その場だけを思いきり楽しんで、それが終わる
とまた次のモノを求める。 そしてそれをくり返す。

と、こういったいろんな背景があったのだと思います。

  そして、映画もプロレスもその後こういう傾向(派手なシーンばっかり)が
強くなっていき、やがてついにはそれが行き過ぎたところまでいってしまった。

 1つ1つの映画の個性がうすれ、プロレスにおいてはこの傾向が進みす
ぎて行き詰ってしまった。 そして、この傾向のために三沢は死んでしまった
ということです。

  ただ、なにごとも1度こういう方向に進みはじめると、なかなかもう元には
戻れない。 もっともっと、というふうになっていってしまう。

  とくに、世の中が商業的になっている現在にあっては、ますますその傾
向を強めてしまいます。 そもそも資本主義というもの自体が「永遠の経済
成長」、つまり、もっともっとを基本としているからです。

  ちなみに、経済学者たちはみな資本主義がこの先ずっとつづくとは思っ
ていないようです。

 どうなっていくのでしょうか?

最後にスピルバーグのプロフィールを。


《 スティーヴン・スピルバーグ 》

スティーヴン・アラン・スピルバーグは、1946年生まれのユダヤ系アメリカ
人。 アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー。 アメリカ映画アカデミ
ー会員。 大英帝国勲章(KBE)受章。

  オハイオ州でウクライナ系ユダヤ人の家庭に生まれ、アリゾナ州に育つ。
父のアーノルド・スピルバーグは電気技師、母のリア・アドラーはコンサートピ
アニスト(後に、レストラン経営者となり、ロサンゼルスで 「The Milk Way」 と
いうユダヤの乳製品料理のレストランを始める)であった。

父の仕事の都合上、引っ越しが多かったという。 ユダヤ人であったほか、デ
ィスレクシア(学習障害の一種)のために同級生より読み書きを修得する速度
が遅く、このためいじめも受けたこともあった。 両親は離婚しており、これらが
後の作品に大きな影響を及ぼすことになる。

  初めて観た映画は5歳の頃に鑑賞した『地上最大のショウ』。 幼い頃から8
ミリカメラで自主的に映画を製作する。 きっかけは13歳の頃、家族旅行の際
に父親から8ミリカメラを渡され撮影係を頼まれたためだという。

  スタンリー・キューブリック、デヴィッド・リーン、黒澤明、アルフレッド・ヒッチコ
ック、『ゴジラ』 など様々な映画の影響をうけるが、特にディズニー映画は初期
の彼の作品にさまざまな影響を与えている。彼自身、雑誌のインタビューで 「ウ
ォルト・ディズニーこそ僕の生みの親で、テレビは育ての親だ」 と語っている。

17歳の時、アリゾナに住んでいたスピルバーグはカリフォルニアに遊びに来
た際、ユニバーサル・スタジオをバスで回るツアーに参加。 ツアーの途中でトイ
レに隠れてバスが去ってからスタジオ内を探索するという大胆な行動を行った。

スタジオで映像保管係をしていたスタッフと知り合うと、3日間の通行証を作って
もらったためその3日間で人脈を作り、スタジオには顔パスで入れるようになり、
通行証なしで出入りできるようになったという。 この頃、映画監督のジョン・フォ
ードと出会う。

1965年からカリフォルニア州立大学ロングビーチ校にて映画を専攻。 この頃
になると、スピルバーグは大学に通う一方で休みになるとユニバーサルへ潜り込
むようになり、ついには空き部屋だった掃除小屋を自分のオフィスとして使用して
ユニバーサルに居候を始め、ハリウッドを出入りするようになる。

その後、21歳のときに、オープニングタイトルとオプチカル効果の会社を経営
しているデニス・ホフマンと知り合い、映画製作資金を提供してもらうこととなり、
最初の作品 「アンブリン」 を完成させる。 この映画がユニバーサルテレビ部門
の責任者シドニー・シャインバーグの目に止まり、ユニバーサルと7年契約するこ
ととなる。

  この契約のため大学の卒業は困難になり、69年にカリフォルニア州立大学は
中退。 後に再度入学し卒業、2002年にB.A.(学士号)を取得した。

  72年にテレビ映画として撮った 『激突 ! 』 が評判を呼び、海外では劇場公開
されスピルバーグの名前が世界に知られるようになる。 74年に 『続・激突 ! カ
ージャック』 で、劇場用映画監督に進出。

75年に公開された 『ジョーズ』 はそれまでの 『ゴッドファーザー』 の記録を破
り77年に 『スター・ウォーズ』 に抜かれるまで世界歴代興行収入1位を記録する
大ヒットとなり一流監督の仲間入りを果たす。

  その他ヒット作に 『未知との遭遇』、『インディ・ジョーンズ』 シリーズなど多数存
在し、82年の 『E.T.』 では2度目の世界歴代興行収入1位を記録し、97年 『タイ
タニック』 に破られるまで続いた。

初期の頃は娯楽映画で評価を得ていたが、やがて様々なジャンルの映画を手
がけるようになっていく。

93年には『ジュラシック・パーク』 を大ヒットさせ、同年のアカデミー賞では『シ
ンドラーのリスト』 で作品賞、監督賞を受賞する。 スピルバーグは、この作品の
製作に意欲的で報酬を断っている。

94年にドリームワークスを設立。 98年に 『プライベート・ライアン』 で2度目
のアカデミー監督賞を受賞する。

2201年に英国王室(エリザベス2世)より、ナイト爵を授与された。

  2000年以降はドリームワークスの経営者としての活動が多くなり、監督作品
を出すペースもやや遅くなりつつある一方で、プロデューサー(製作総指揮)とし
ての活動が盛んになっていく。

  撮影においてリハーサルをほとんど行わないなど、凄まじいほどの早撮りで、
3時間近くある自身渾身の大作 『プライベート・ライアン』 は2か月で撮影を終え
たという。 このために多作である。 また製作費を安く抑えることでも知られている。

  撮影機材に精通した監督としても知られ、また、多くの監督がデジタルで撮影
を行っている中で、彼は未だにフィルムを使用している

  親日家としても有名で、寿司とウナギの蒲焼きが大好物とのこと。 自宅の門
には日本語で 「スチーブン スピルバーグ」 と彫られた木製の表札が掛かってお
り、これは三船敏郎が 『1941』 に出演した際にプレゼントしたものである。

また、『宇宙戦争』 では日本限定のCMを公開している。

  映画の撮影前や製作に行き詰まったときに、もの作りの原点に立ち戻るため
に必ず観る映画として、『捜索者』 『七人の侍』 『素晴らしき哉、人生 ! 』 『アラビ
アのロレンス』を挙げている。

特に 『アラビアのロレンス』 は、彼を最も映画監督になりたいと思わせた映画
であると語っている。



《 ジョージ・ルーカス 》

ジョージ・ウォルトン・ルーカス・ジュニア は1944年生まれのイングランド系ア
メリカ人。

  カリフォルニア州モデストに生まれれ、少年時代はテレビで放映されたかつて
の映画の 「連続活劇」やコミックブックに熱中して過ごす。 高校時代は、カーレ
ースに熱中し、この時代の経験が、後に 『アメリカン・グラフィティ』 に描かれた。

1962年、高校卒業の直前に自動車事故に遭うが、奇跡的に死を逃れ自分の
人生を考え直す。

  60年代の間、フィルムに関する専門学科を早くから設けたロサンゼルスの南
カリフォルニア大学(USC)で映画の勉強をした。 そこで彼はたくさんの短編を
制作し、特にその中の一つ、『電子的迷宮/THX 1138 4EB』 は数々の賞を
受けた。

卒業後、ワーナーのスタジオでの研修中にフランシス・フォード・コッポラと出
会って意気投合し、ハリウッドのシステムに強制されることのない映画制作者た
めの環境を作ることを目指して、コッポラが設立したアメリカン・ゾエトロープ社の
副社長に就任した。

  しかし、その後ルーカスは自らの映画制作会社ルーカスフィルムを設立し、そ
こで制作・監督した 『アメリカン・グラフィティ』 が大ヒットし一躍有名になる。そし
て、20世紀FOXに企画を自ら持ち込んで 『スター・ウォーズ』 の制作を始めた。

  上にも書いたように、 『スター・ウォーズ』 の監督としてのギャラは極めて安か
ったが、その他のソフトやグッズ、マーチャンダイジングなどの権利によって莫大
な富を得るに至った。

  ルーカスは学校で映画の技術面を多く学び、始めは監督より編集者として活
躍していただけに、編集システムや音響システムの開発の面での功績も多い。

  たとえばスターウォーズのために開発された音響システム、THXプログラムの
開発。 このシステムによって音響効果が整っていない映画館においても高い音
質の再生が可能となった。

  また、THXはデジタル化されたソフトの製作にもちいられるようになり、結果と
して、家庭での再生環境の向上にも絶大な影響を与えた。

  一方で、スターウォーズ以外の作品は比較的少ないが、理由の一つに、77年
『スター・ウォーズ 』 を製作中のストレスが甚大で、内気な性格の上に糖尿病を
患っていたルーカスには肉体的負担が強かった事が挙げられる。

そのため、『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』 では製作総指揮に回り、次の監督
作 『エピソード1』 まで22年間の空白が出来る事になってしまった。


  映画で得た利益のほとんどをルーカスフィルムに費やして、自身の生活は質素。
マリンカウンティのハンバーガー店でハンバーガーを食べている姿をよく見かけら
れている。

なお、ルーカスフィルムがあるスカイウォーカーランチではブドウを栽培しており、
このブドウは収穫されコッポラの経営するニバウム・コッポラ・ワイナリーでワイン
として販売され、高値で取引されている。

  特撮映画の巨匠レイ・ハリーハウゼンを尊敬し、「僕達のほとんどが子供の頃
から彼(ハリーハウゼン)の影響を受けてきた。その存在なくして 『スター・ウォーズ』
は生まれなかった。」と影響の大きさを語っている。

(※) 今年5月になくなったレイ・ハリーハウゼンの詳細についてはこちら
https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=61714234

また、黒澤明を尊敬しており、ルーカスの作品の随所には日本文化の影響が表
れている。 『影武者』でも、国際版の製作総指揮という立場で黒澤を支援し、1990
年の第62回アカデミー賞授賞式では、スピルバーグと共に黒澤にアカデミー名誉
賞のオスカー像を贈った。

スティーヴン・スピルバーグとは、映画界における昔からの戦友である。 スピルバ
ーグは『未知との遭遇』 公開直後から同時期に公開された 『スター・ウォーズ』 の
大ファンであった。

『インディ・ジョーンズ』 シリーズを一緒に製作しているほか、『スター・ウォーズ エ
ピソード3』 では、スピルバーグがアシスタント・ディレクターに就いた。

ポーランドで 『シンドラーのリスト』 を撮影していたスピルバーグに代わって 『ジ
ュラシック・パーク』 のCGの仕上げや編集などのポストプロダクションを統括したの
もルーカス。

  そのほか、『E.T.』 のハロウィーンのシーンでヨーダが登場、『スターウォーズ エ
ピソード1』 ではエキストラとしてE.T.が登場し、『未知との遭遇』にはR2- D2が登場
していたりする。




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