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2013年から見たオウム真理教事件  ④.当時の一般人の正直な印象 (上) [ニュース]

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  戦後最大の凶悪事件 「オウム事件」。 当時、3~4ヶ月の間国民はテレビに
釘付けになりました。 テレビ視聴者であった一般の人々にとってオウムとは何
だったのか? 当時の雰囲気をイメージできるように画像をまじえて描写します ! ! 

それではつづきです。

 前回の終りの部分でも述べましたように、2013年の現在、20代半ば以下の
人たちは恐らくこの事件についての記憶はないではないでしょうか?

 このページでは、堅苦しい話は抜きにして、当時の一般の人々、テレビの視聴
者である普通の人々はこの事件をどう見ていたのかということを、当時を知らな
い人たちにも分かってもらえるように、できるだけ分かり易く説明していこうと思い
ます。

 正直に言ってしまえば、当時の人々は以下で説明する 『オウム劇場』 を面白
おかしく楽しんでいたということです。

 “この事件は犠牲者も多いので、あまり不謹慎なことは言うべきでない” とか、
そういう部分もあるとは思いますが、事実として、当時の人々はテレビから流れ
てくるタイムリードラマを非常に楽しんでいました。

 以下では、そういった一般庶民の好奇心の対象としてのオウム事件をお伝えし
ようと思います。


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 まず始めに、オウムの組織形態と重要メンバーを紹介しておきましょう。

 オウム真理教の組織は、宗教的秩序と世俗的秩序の両面があってややこ
しいのですが、宗教的秩序を先に説明すると、まずは頂点に 「尊師」 (教祖)
である麻原が君臨し、
 その下に 「正大師(せいたいし)」 と呼ばれる、信者の中での最高位に値す
る人たちがいます。 そして、その下が 「正悟師(せいごし)」 。 彼らは法服の
色で区別されていて、尊師が紫、正大師が青、正悟師がピンク。

 正大師 : 上祐史浩、村井秀夫、青山吉伸、石井久子、林郁夫 など
 正悟師 : 早川 紀代秀、遠藤誠一、井上嘉浩、土谷正実、飯田エリ子 など

 このうち、男性はほとんどが理系のエリート(医師も含む)

 彼らは富士のすそ野に一大擬似国家を築いていました。 教団内のそれぞれ
の部門に、日本国家と同じく 「~ 省」 「~ 庁」 という名前をつけてその大臣を
任命していたのです。

 外務省は上祐、大蔵省は石井、建設省は早川、法務省は青山、科学技術省
は村井、治療省は林、厚生省は遠藤と土屋 ・・・・・・  という感じです。


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 ここで、教団内の特殊な人間関係を紹介しておきます。

  まず、正大師で大蔵省のトップ石井久子氏は、教団随一の美貌と言われ、実
際麻原の愛人です。 麻原の子供も生んでいたと思います。 ここまで地位が高
いのはそれゆえです。 下が、以下4人の写真です。

 次に、正悟師で東信徒庁トップの飯田エリ子氏は上祐氏の早稲田時代からの
彼女です。 上祐氏を追って入信しました。

  正悟師で諜報省トップの井上嘉浩氏は、幹部の中で唯一エリート(大卒)ではな
く、教団叩き上げの人物で、その熱心さを気に入られて麻原の側近にまで上り詰
めました。

 正悟師で建設省トップの早川 紀代秀氏は、幹部の中で唯一麻原よりも年上で、
その雰囲気もあまり宗教色を感じさせず、一人だけ異彩を放っていた人物。 ヘリ
や武器調達のほか、実務面で活躍していた。


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 次に、その誕生から地下鉄サリン事件に至るまでのオウム教団の経緯を振
り返ります。

 団体としてのオウムは、1984年、後に麻原彰晃と名乗るようになる松本智
津夫が 「オウム神仙の会」 というヨーガ道場を開いたことに始まります。

 その後1987年、宗教団体 「オウム真理教」 が設立され、89年8月には宗
教法人として認証を得ています。

 この頃から教祖の麻原は解脱によって超能力を身につけたなどと主張する
ようになり、教団内での神格化が行われたようです。

 また、宗教法人として認可されて以降、日本全国に支部や道場が建設されて
いき、ロシアやスリランカなど外国にも支部を置くようになっていきます。

 大学などにおける講演会の開催や、教団による出版物の刊行も行われるよ
うになり、若者をターゲットにした布教活動がさらに進められていきます。

 89年の段階で、外国人も含めてすでに約1万人の信者が存在していたとい
われており、その急速な成長を考えれば、オウム真理教、ひいては教祖の麻
原には、宗教人としての魅力とカリスマ性があったということが分かります。

 また、信者の年齢が非常に若いというのが特徴で、従来の宗教のように古臭
い感じがなく、大学のサークルのような新鮮な雰囲気をもっていたというところ
も信者を多く集めることができた要因だと思われます。

 教団の発展に伴い、世間やマスコミにも徐々にその名が知られるようになって
いきましたが、世間から見た場合、オウムから受けた印象は2つの面があったと
思います。

 一面では、一般社会との軋轢によってしばしばトラブルを起こす奇妙な団体と
いう印象。

 オウムは日本各地に支部をもっていましたが、周辺の住民に “不気味な集団”
という印象を持たれて立ち退きを迫られるというトラブルが頻発しました。 周辺
住民は 『オウム出て行け』 などと書かれた看板をたくさん立てたり、反オウム集
会を開いたりというパターン。


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 また、オウムは出家信者を多く抱えていて、中には家出同然に家を飛び出して
そのまま出家してしまったり、親の反対を振り切って出家した信者などがいます。

 そうすると、親が教団施設に子供を取り返しにくるということが起こります。 親
は “施設の中に入らせろ、子供に会わせろ ! ” それに対して教団は、立ち入りを
拒否する。 そして “押し問答” となるというパターン。

 さらに、この頃のオウムは比較的マスコミに対してオープンだったので、ワイド
ショーの修行風景の取材などを受け入れていました。 修行では、法服を着た信
者たちが大勢でヨーガのポーズをとったりしますので、それだけでもやはり奇妙
に見えてしまいます。


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 90年には、大量の幹部クラスの信者が衆議院議員選挙に立候補したのです
が、結果としては全員落選。

 そのときの選挙運動が、教祖の麻原が教団オリジナルの歌をうたい、その周
りで若い女性信者たちが曲に合わせて踊る、といったとても奇抜なものだったの
で話題になりました。

 なお、この時期のオウムのイメージは、いまだ “奇妙な団体” であって “危険
な団体” というほどのイメージはありません。


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 以上のように、世間から見たオウムは、一面では “トラブルメーカーで奇妙な
集団” という印象がありましたが、もう一面でオウムは、“若者たちを惹きつけ
る、新しい時代の新しい宗教、宗教的なニューウェーブ” として、まっとうな評価
を受けているという存在でもありました。

 ちょうど同じ時期に誕生した幸福の科学(大川隆法)としばしば対比して語ら
れる傾向があり、当時の 「朝まで生テレビ」 で、何らかのテーマについてこの
両団体に論争させるという回がありました。

 そのときの論争は、オウム側の優勢で議論が進み、オウムの判定勝ちという
結果になったと思います。 

 オウム真理教の教義は、原始仏教、ヨーガを土台にして、大乗、密教、大日如
来と、ほとんど全ての仏教思想のいい部分を取り入れていて、さらに仏教以外の
儒教、道教、キリスト教、ゾロアスター教などを総合して、それらを麻原が自らの
頭の中で体系づけたのだと思われます。

 「宗教は一つの道」 というのが基本にあったようで、さまざまな宗教があるが、
それらは語り方の違いにすぎず、真理は一つである。 たとえばキリスト教の終末
論も、仏教的な 「創造・維持・破壊」 のくり返しの中の一つにすぎない。

 このような麻原の教義は、宗教学者や吉本隆明氏などの知識人からも評価さ
れていて、そのため当時の麻原は、宗教学者や社会学者、またビートたけし氏な
どとの対談や、テレビ、ラジオへの出演なども積極的に行っていました。

 オウムは高学歴の信者が多いというのも大きな特徴とされていましたが、それ
もやはり教義がすぐれているからこそであったと思います。


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 ・・・・・・ このように90年代初頭のオウムは、正と負の両面において存在感を
持っており、この状態がしばらくの間つづきます。 しかし、あとから考えれば、こ
の時点ですでに坂本弁護士一家殺害事件という大きな犯罪を犯していたという
ことになります。


 94年6月、松本サリン事件が起こります。 事件の背景には、オウム真理教松
本支部の立ち退きを周辺住民が求めていた裁判においてオウム真理教側の敗
訴の見込みが高まったことがありました。


 麻原はこの状況を打開するために、信者らに裁判を担当する判事の殺害を指
示しました。 これを受けて、信者たちが長野地方裁判所松本支部官舎に隣接す
る住宅街にサリンを散布したということです。

 その結果、死者8人、負傷者660人に及ぶ被害がでました。

 そして 翌95年3月20日、地下鉄サリン事件が起こります。 この事件で13人
が死亡、5510人が重軽傷を負いました。 阪神の大震災の2ヶ月後のことです。

 この時点ですでに教団は6件の殺人事件を犯しています。


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 当時この事件は、ほんとうに世間を騒がせました。 「騒がせた」 などというあ
りきたりなコトバでは表現しきれないほどに騒がせました。

 戦後、最大級の衝撃を与えた事件として 「浅間山荘事件」 がありますが、注
目度、スキャンダル性、事件の内容、重要さ、キャラクター、期間の長さなど、イ
ロイロな面を総合すると、やはりオウム事件が戦後ナンバーワンの事件だと思
います。

 相当長い期間にわたって、ニュースやワイドショーなど報道系のテレビ番組は、
放送時間のほぼ全てをこの事件のためにあてていました。 本当に、数ヶ月にわ
たってテレビはこの事件のことしか放送しなかったのです。

 それはもちろん国民がそう望んでいたからであって、実際、95年4月~6月
のクールでは、裏でオウム特番を組むケースが多かったためにドラマの視聴
率が軒並み大幅に低下したようです。

 また、本来であればもっと大きく取り上げられるはずであった米オクラホマシテ
ィ連邦政府ビル爆破事件(4月19日)や 野茂英雄のメジャーデビュー(5月2日)、
テレサ・テンの死去(5月8日)などのニュースは、その扱いが小さくなりました。
そんなことはどうでもよくなってしまったワケです。

 テレビで毎日少しずつ新しい情報がでてくるのですが、国民みんながそれを
心待ちにしている状態。 それはまるで連続ドラマのようであって、しかも実際の
ドラマ番組よりもはるかに面白いリアル連続ドラマ。

 なんとなくみんなが浮き足立っているというか落ち着かないというか、雰囲気
的にはオリンピックの期間中と似たような感じがありましたが、それをもっと強く
した感じです。

 この事件によって家族での会話が大幅に増えたという言い方もされました。


 ・・・・・・ それでは、一体どのような番組が放送されていたのか? そしてそれ
らの番組は、どこがどう面白かったのかというのを(下)で具体的に紹介します。


 ⇒ (下) につづきます




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