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アントニオ猪木 石原 橋下 【 絶対に面白い話! 過去の選挙で衝撃の事実! vol.5 】 [ニュース]

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 キンシャサ以降のアリについて。 翌75年、初防衛戦として無名のチャッ
ク・ウェプナーの挑戦を受け15RKO勝ちを収めるが、予想に反してウェプ
ナーは善戦し、アリからダウンも奪う。

 ちなみに、チャック・ウェプナーはカタギという感じではなく、少年時代か
ら「入ったり出たり」 をくり返していた。 ボクシングを始めたのも中にいると
きだったという。 その戦い方はダーティーで、アリからダウンを奪ったとき
も、じつはアリの足をワザと踏んでいたのである。 また、ウェプナーの鼻
は思いっきりひん曲がっていて、そこからもウェップナーの歩んできた道が
伺われる。

 この試合を見た、当時はまだ無名の役者であったシルベスタ・スタローン
は、「ロッキー」 の脚本を一気に書き上げた。

 77年、ウェップナーは猪木と異種格闘技戦を行った。 結果は6R、逆え
び固めで猪木が勝利を収めた。 猪木はこの試合で初めて、佐山サトルが
考案したオープンフィンガーグローブを装着して試合に臨んだ。

 75年10月、4回目の防衛戦としてジョー・フレージャーと対決。14回TK
Oで勝利を収める。

 そして76年年6月、アントニオ猪木との異種格闘技戦。 15R引き分けに
終わるが、猪木の蹴りによって左足に血栓症を患い1ヶ月半に渡って入院
を余儀なくされる。 これにより、次の防衛線は延期されることとなった。

 78年2月、NYでレオン・スピンクスの朝鮮を受けるが、大方の予想に反し
て判定で敗れる。 ちなみに、レオン・スピンクスも五輪金メダリスト。 9月の
リターンマッチで雪辱を晴らす。 これにより、史上初めて3度目の世界王者
となった。

 80年、かつてのスパーリングパートナー、ラリー・ホームズにTKOで破れ、
81年、トレバー・バービックに判定負け。 ついに引退する。

 ・・・・・・ ということで、史上最強かどうかは置くとしても、アリが史上最も
偉大なチャンピオンであったのは間違いないと思います。 やはりその辺が
マイク・タイソンとは違ういます。 特に、黒人問題、ブラックムスリム、ベトナ
ム戦争など、あの激動の時代を象徴すす存在だったという意味ではボクシ
シングを超えた歴史的人物といえるでしょう。

 ここで確認しておきますが、いま何の話をしているのかというと、湾岸戦
争時にイラクに在留していた日本人が人質にとられ、それに対して猪木が
問題解決に向けて動いた際に、猪木が個人として持っている2つの力が大
きく影響したという話でした。

 そのうち1つがアリに関係することでで、具体的には後ほど説明します。
そしてもう1つが、「イノキ・ペールワン」 という称号についての話です。

 猪木-アリ戦は、日本やアメリカではさんざん酷評されてしまいました。
しかし、世界の中にはこの戦いを非常に評価してくれた地域も複数存在し
ていました。 それはヨーロッパの一部、パラオやキューバなどの島々、そ
してイスラム諸国といった地域です。

 アリ戦のあと、それらイスラム諸国の一つであるパキスタン政府から、わ
が国でぜひ試合を行っていただきたいとのオファーを受け、新日本プロレ
スはパキスタンで興行をおこなうことになりました。

 vol.6 につづきます
 



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