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村上水軍 今治 史上最強の海賊だゾ ! ! ! [歴史]

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 村上水軍とは、村上源氏の末裔だとされ、中世以来、瀬戸内海で活躍した海上
の武装集団(海賊)である。 瀬戸内海の因島・能島・来島を拠点とした三氏は三島
村上氏と呼ばれ、三家合わせてその数は790余騎と、もっとも強大であった。

 三島村上氏は、農村を生活基盤とする家臣以外に、月給制の海戦のプロという
べき船舶専門の兵員を多数扶養していた。

 彼らは、海賊城と呼ばれる独特の城郭を営み、海上の要衝に関所を設け、関銭
を徴収したが、この関銭が彼らの最も大きな収入源であった。 また、その他、航行
船の略奪、破壊、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断などを行い、沿岸の
諸国は、彼らを恐れて毎年年貢を納めていたという。

 しかしこれらの悪行だけでなく、海上輸送や海上警備、水先案内などの仕事も請
け負っていた。

 彼らは、海戦や海上輸送において抜群の能力をもち、提携する大名の信託に応
えることによって、さまざまな特権や領地を獲得し、また、山名氏や大内氏とつなが
ることで対外貿易も行った。

 このように村上水軍は、有力大名と組むことによってその勢力を拡大していき、ま
た、その戦略的な価値ゆえに重宝されたが、その利益最優先の姿勢は、農村を基
盤とする諸大名から卑しき者とみなされ、その不興や怒りを買うこともしばしばあっ
たといわれる。

 1555年(弘治元年)の厳島合戦で毛利氏の側についた村上氏は、毛利水軍の
一翼を担うようになり、その勢力は揺るぎないものとなった。 毛利氏支配下の水軍
として石山本願寺への兵糧輸送などでその力を発揮するが、やがて毛利氏が織田
信長と対立するようになると、三家もその渦中に巻き込まれていく。

 そして、その後 来島村上氏が豊臣の勢力下に寝返ったことで、三家は分裂し激し
く対立していくことになる。

 豊臣秀吉の天下となると、早くから豊臣方についた来島村上氏は独立大名の身
分をあたえられ、他の二家については能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛
利氏の家臣となった。

 1588年(天正16年)、「海上賊船禁止令」 が出されると、村上水軍は従来のよ
うな活動が不可能となり、 海賊衆としての活動からの撤退を余儀なくされる。

 さらにその後、徳川幕府の 「鎖国令」 によって、諸大名は大型建造船の所有が
禁止され、水軍を用いることもなくなり、水軍は完全にその姿を消すことになる。

 その後、彼らの一部は一般の海上輸送業務を行うようになっていった。


 なお、現在も、瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住んでいるといわれて
いる。




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